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死後のいのち

 投稿者:はるみ  投稿日:2012年 7月27日(金)15時10分34秒
編集済
  地獄における体と魂の破壊について:マタイ10:28では、魂は不滅のものではないと書かれてあります。

このは元来ギリシア的思想であり、この節で使われている「地獄」という言葉は、元々「ゲイ」と「ヒノム」という二つの単語が組み合わされて作られた単語であり、後者の「ヒノム」はエルサレムの南側にある”ヒノムの丘”という、パガンの神が礼拝されていた土地の名前から来ています。


人間は不滅の魂を持っているというこの考えは、バビロンから来ており、後のエジプト人に受け継がれ、そしてギリシア人の思想となっていきました。


現代において信じられている地獄と死後の世界は、ダンテの”神曲”という書物の影響を大きく受けており、
この書物はフィクションの物語であってキリスト教書籍ではありません。

永遠に生きるとされている不滅の魂に関する教えは、聖書的ではないのです。

これが神が地上に来られた理由でもあります。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

もし私たちの魂が永遠に生きるものであるのなら、なぜキリストが私たちに永遠の命を与えるためにこの地上に来なければならなかったのですか?

私たちの魂は永遠に生きるものではありません。

それゆえ、神の贈り物が永遠の命となるのです。

キリストを救い主として受け入れる者達は神とともに永遠に生きる命を頂きます。

逆に神を拒絶した人々は永遠に生きることは出来ないのです。

彼らは地獄に行きます。
しかし彼らは地獄で永遠に生きるのではありません。
彼らの魂は永遠のものではないからです。

マラキ書4:3は地獄に行く者達は地獄に落ち焼かれて灰となる、と書かれてあります。
彼らは跡形もなく絶滅させられるのです。もはや存在しない者達となるのです。


神を拒絶したからという理由で、何ゆえ愛の神が永遠に苦しむことをお許しになるでしょうか。

実際、このことが多くの未信者が、神を信じようとしない最も大きな理由の一つです。
もし神が真実愛なる方であるなら、人々を永遠に苦しめるようなことをなぜするのか、と。

神はそのようなことはなさいません。
聖書はサタンと彼に従う堕天使達が地獄で永遠に焼かれる、と教えていますが、しかしならがマラキ書4:3は罪人は焼かれて灰になると告げています。
焼かれて灰になるとは、彼らは焼かれて存在しなくなる、という意味です。



考えてみて下さい。人が永遠に焼かれるなど有り得るでしょうか。
その者は永遠に焼かれ続けるために不滅の存在とならなければなりません。
そのためには、永遠の命が必要となります。
(天使達はすでに不滅の存在です。)しかし人間は違います。


人間は永遠に生き続けることは出来ないのです。それゆえイエスは私たちに永遠の命を授けるために来られたのです。
もし罪人が神のこの贈り物を受け取らないのであれば、その人は永遠に生きることは出来ません。

つまりその人は永遠に地獄で焼かれ続けることはないのです。
彼らは地獄の炎で焼かれれば存在しないものとなります。

地獄はしばしば聖書では全てを焼尽す炎として描かれています。

平たく言えば、それは完全に燃やし尽くす、存在させなくさせる、という意味でもあります。

ヨハネ3:13ではイエス以外誰も天に上った者はいない、と書かれてあります。
つまり、キリストを信じた者で今死んでいる者たちも、まだ天国には入れていないということです。
使徒業伝2:29において、ペテロはダビデ王を「死んで葬られ」と描き、ダビデが天国やその他の霊的な場所にいないと表現しています。

また、同じく使徒業伝13:36-37で、
「ダビデは、その生きていた時代において神のみ心に仕えて後、死んで祖父達の仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。しかし神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした」とあります。


聖書は人は死ぬと眠りにつく、と教えています。
この眠りとは思考が停止し、意識がない状態のことです。
伝道者の書(コヘレト)9:5,10節を見て下さい。

「生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は者は何も知らない。
彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。」(5節)
「あなたの手元にあるなすべき事はみな自分の力でしなさい。
あなたが行こうとしている黄泉には、働きも企ても知識も智恵もないからだ。」(10節)

ダニエル12:2では死者は、後に目を覚ます「地のちりの中に眠っている者達」という表現がなされ、
ヨブ3:11,13,17を見ると、彼は自分が生まれた時に死産であれば良かった、そうすれば
眠って休み、そこでは悪者どもはいきり立つのをやめ、弱者は憩う、とあります。

ラザロが死んだときイエスはラザロは眠っていると言いました。(ヨハネ11)
大事な点は、イエスがラザロに出てくるように呼んだときの場面です。
これはラザロは墓場にいたということ、それ以外のどこにいた訳でもありません。

ダニエル12:2でが死者が「地のチリ中に眠っている者たち」
という表現がありますが、これらの人たちは後に「目を覚ます」とあります。

ヨブは「自分は(胎から出た時)むしろ死んでいれば良かった、そうすれば眠って休んでいられたのに」と語っています。
ラザロが死んだ時、彼は眠っていました。(ヨハネ11章)
覚えておいて下さい。イエスはラザロに外に出てくるように呼びかけました。
これはラザロが墓の中にいたということです。他のどのような場所でもありません。

第1テサロニケ4:15-17 :
パウロは死者について「眠っている者たち」と言及しています。
これらの箇所でパウロはまず眠っている者たち(死者たち)が初めにイエスの号令を聞いて蘇り、その後
地上で生き残っている者達が空中で主とお会いするために引き挙げられる、と言っています。


死は意識のない眠った状態であるということが聖書の一般的な教えであり、
その眠りから目覚める時はイエスが再臨される時です。
眠っている死者たちにとって、時間は瞬く間に流れます。

例えば飛行機に乗って長距離飛行をすることを考えてみて下さい。
飛行時間が15時間だったとしましょう。しかし機内で眠っている乗客にとってはあっという間の時間です。
その人たちは一つの場所にいて、目を閉じ、再び目を開くと数千マイルも離れた別の場所に移動している訳です。
長い時間も彼らにとっては、短時間の出来事です。
死んでいる者たちは、そのような状態になるのです。
死の床につき、彼らは瞬きをし、次の瞬間には終わりの日のイエスが臨在される場にいることになります。


これは西暦500年頃までは信じられてきたことでしたが、後に多くのパガン教の教えがキリスト教の中に入り込んでくる事になります。14世紀に入るころ、イタリアの詩人ダンテの神曲を書き、人間は死後地獄で永遠に生きることになると確信させるのです。
そして永遠の刑罰というこの思想は多くの人々に恐怖を与え、
教会の制度に従わせるために非常に効果的な道具として用いられたのです。


これは聖書の教えと真逆のものです。

聖書は、神は人が滅びることを望まれない愛の神だと教えています。(2ペテロ3:9)


この聖書箇所は私たちに二つのことを語っています。
一つ目は、人間が滅び失せる可能性があるということ。
(もはや存在し得なくなる、という意味です。)

そしてペテロは、神が愛の神であり執念深い報復的な神ではないということです。
神は誰一人として地獄で苦しむことを望まれていません。もし人が地獄に行くとするなら、その人はそこで滅びることになります。
(そこで少しの間焼かれて、消えてなくなるということです。)
これはマタイ5:44 で、「汝の敵を愛せよ」と告げた同じ神なのです。


では、イエスのことを聞いたことがない人々についてはどうなのでしょう。
神はそのような人々を地獄に送るのでしょうか。
聖書は地獄には三種類あると告げています。

旧約聖書で使われているヘブル語では”シェオル”という場所は新約聖書でギリシア語で書かれている”ハデス”と呼ばれている場所と同じものです。
これは「死者の場所」という意味で、これは人が死んで埋められる『墓場』という意味です。

第2ペテロ2:4で言及されている”タータラス”という場所は、悪魔が罰を受けるための場所として使われています。
この言葉はギリシア語の”ミソロジー”から由来し、それはタイタン(半神半人)が永遠に監禁されるための場所として語られています。ここでの地獄という言葉は人間のためにあるものではなく、悪魔のためにあるものです。


最後に、聖書の中にはギリシア語で書かれている”ゲヘナ”という言葉があります。
先に触れましたが、これはヒノムの丘(ヨシュア18:16)を指し、エルサレム郊外にある丘で宗教的な偶像礼拝を捧げる場所であり、また人間の生け贄を捧げる場所でもありました。
ヨシュア(ユダの王)は悪魔礼拝をする人々やそれらすべてに関わるものを大火の中で燃やしでしまうよう命じたのです。 (2列王記23:10, 13,14).


やがて(イエスの時代になる頃まで)この場所は悪魔的に汚れたものを捨てて燃やす場所として知られていました。
犯罪者の遺体もまた、この火の中に投げ捨てられました。


これゆえ、イエスは彼の言葉に耳を傾ける者たちに、未信者たちがどのようになるか理解させるためにこの特別な場所について言及されたのです。未信者たちは聖めの炎の中に投げ込まれ、滅び失せてしまうだとうと語りました。

イエスの言葉に耳を傾けた人々は、彼の言葉を容易に理解することが出来ました。
イエスがこの地獄という言葉について触れた箇所で、彼は「そのウジは死なず、その火も消えず」と話しています。
イエスはこの言葉をイザヤ書66:24から引用しました。
ここで神は”すべての人々が、わたしの前に礼拝に来る”と言われています。 (23節)


これは邪悪な者たちが存在していない時のことを言っているのでしょうか?
この邪悪な者たちはどうなるのでしょう。
24節を見ると、人々は出て行って、”屍を見る”とあります。これらは神に反逆した者たちの屍です。
彼らから湧き出たウジは死ぬ事なく、その火も消えず・・とあります。
イエスは邪悪な者たちの屍はウジの死骸によって影響を受けると言っているのです。


これらは火に投げ込まれて生きている人々についてのことではなく、死んだ者達についてです。
そしてこの”ウジ”とは、「ウジ虫」のことです。ですからウジ(ウジ虫)は死にません。
ここでは火がすべての屍が燃やし尽くされるまで燃え続けると語られ、そのウジ虫は彼らの肉を喰い続け、
イエスはウジに喰い尽くされる邪悪な者たちの体は死んでいると言っているのです。


では、金持ちとラザロの例え話については、どうでしょうか。
ある人々は、この話は天国と永遠の地獄があることの証明だと言います。
しかし私たちはこの物語の背後にある、歴史的背景に目を向けなければなりません。
この話はイエスによって語られた物語です。この話は、例え話です。
イエスはパリサイ人たちに人は神と富みに同時に仕えることは出来ない、と語りました。(ルカ16:13)

パリサイ人たちはイエスを信じていませんでしたから、彼らに「人間の間で崇められるものは、神の前で憎まれ、嫌われます」と言われました。


それでもパリサイ人達は聞く耳を持ちませんでした。それゆえイエスは金持ちとラザロの話を語ったのです。
(9節にアンダーラインを引いて下さい。)イエスが強調したのは、お金についてです。



イエスはご自分がこの例え話をした時、パガン教から派生した地獄についての一般的な見解を引き合いに出しました。パリサイ人達が理解し信じていたからです。
またイエスはパリサイ人達に対し、この地獄の状況を引用することにより、お金銭にしがみつく結果がどうなるかを彼らに理解させるため語りました。

今回、私は地獄について多くのことを話していますが、実際他にも多くの間違った教えが現代のキリスト教の中に混ぜ合わされています。
死者は眠っている、ということ。これは亡くなったクリスチャン達も含まれています。
聖書は死んだクリスチャン達が死ぬと天国に行くとは教えていません。
実際多くのクリスチャン達が天国で私たちが何をすることになるのか、という問いに対して疑問を抱いています。
聖書はそのことについて、明らかにしていません。
なぜなら私たちが天国に行くとは語っていないからです。死者は眠りにつきます。
死者もまたキリストの再臨を眠りながら待っているのです。
聖書はイエスのみが天国に行ったと告げています。(ヨハネ 3:13)


.
いつの日か、イエスは戻ってこられます。その時に死者がまず引き挙げられ、そしてその後で生きている者たちが空中で彼らに合流するのです。イエスが地上で彼の王国を築くとすぐに、この地上はエデンの園の頃のようなパラダイスに変えられるでしょう。



これはゴルゴダの丘でイエスとともに十字架にかかった盗人に起きた事と同じです。
盗人はイエスに「私を思い出して下さい」と願い頼み、イエスは「あなたは今日、私とともにパラダイスにいます」と応えられました。私たちは、イエスが死んだその日、彼が十字架上で死んだその日、天国には行っていないことを知っています。
なぜなら彼は3日後に死から蘇り、マリアに触れないように言いました。
なぜならその時のイエスはまだ御父のところ(天国)に昇っていっていなかったからです。


イエスが盗人に言ったパラダイスとは、彼が再臨した後にこの地上に建て上げる王国のことです。
ヘブル11章では亡くなった勇者たちの長いリストが記されています。39節では「これらの(亡くなった)者はみな信仰によって証されましたが、約束されたものは得られませんでした」とあります。

イエスを除いて誰一人として天国には行っていないのです。
マタイ25:31-34では、イエスは彼の再臨と地上における神の王国について言及しています。
天国についてではありません。
天国における永遠性への信仰はパガン教から出たもので、それは長い時をかけてキリスト教の中に浸透されて生きました。

もしこれが真実であるならば、エリヤはどうなのでしょう。
多くの教会で、神は彼を直接天国に引き挙げた、と教えています。もしこれが事実なら、福音が間違っていることになります。  なぜならヨハネ3:13はイエスが地上から天国に入った唯一の者だと告げているからです。



私たちは聖書には一切の矛盾がないことを知っていますから、私たちはエリヤの物語に関して間違った教えを受けていいる事を確認しなければなりません。
では聖書が実際に襟やについてなんと言っているか、検証してみましょう。
彼は9世紀の時代に生きた神の預言者でした。
聖書には天国には三つの場所があると言っています。(第2コリント12:2参照)
一つ目は神の住まわれる場所、そして二つ目は宇宙空間、そして三つ目が大気圏(空)です。
エリヤがどの天に行ったのかを知るため、私たちは注意深く文脈を注意深く考えなくてはなりません。
エリヤは天国よりも低い位置にある大気圏(空)に連れて行かれたのです。
以下が証明です。


神はエリヤに前もってエリシャという男に後任となる預言者として使命するよう告げていました。(第1列王記 19:16).後にエリヤとエリシャが二人で歩いている時、エリヤはエリシャに「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか」と問いかけます。(第1列王記19:16)


これはエリヤの役割を担うことをお許しになった神のエリシャへの贈り物に関する議論へと導いていきます。
彼らが話しながら歩き続けていると、突然、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。
エリヤは嵐の中を天に上がって行った。(11節)

エリヤは去りました。
エリヤの仲間や弟子だった人々は、それからエリシャを彼らの新しい指導者としてみなすようになったのです。
「エリコの預言者の仲間たちは目の前で彼を見て、『エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている。』と言い、彼を迎えに行って、その前で地にひれ伏した。」(2Kings 2:15)

一般的に多くの人達が、エリヤが神の天国へと引き挙げられたと信じている箇所がここです。
しかしこれは天国に引き挙げられたという証明には該当しません。
預言者の息子達は他の見識を持っていました。
彼らはエリヤが単なる旋風によって地上のどこか別の場所に連れ去られたことを知っていたのです。
彼らはエリシャに言っています。
「ご覧下さい。しもべたちの所に50人の戦士がいます。
彼らにあなたの主人を捜しに行かせて下さい。主の霊は彼を運び去り、どこかの山か谷に投げ落としたかも知れません。」

彼らはエリヤが無事でいるかどうか、この地上を捜索しました。(2 Kings 2:17)

エリヤがまだこの地上にとどまっていたのであって、天国に引き挙げられたわけではないことを証明する別の箇所を見てみましょう。

聖書はエリヤがつむじ風(旋風)によって連れ去られた数年後に、ユダの王であるヨラムに宛てて手紙を書いたと記されています。

ここでは聖書の中に記されている出来事の順序に注目して下さい。
エリヤについての最後の記録で彼の起こした行動は、イスラルのアハズヤが統治する時代にエリヤが王に対して自分の罪のせいで死ぬだろうと告げた時です。(第2列王記1:3;17)


王としてアハズヤが統治したのは紀元前850年のわずか一年のことでした。
エリヤがいなくなり、後任が立てられ、そして次の章へと記録は進んで行きます。
列王記第二です。物語はユダの王であるヨシャファトとの出会いを含んだ、
エリヤの人生に沿ってに続けられます。 (第2列王記3:11-14)
数年後、ヨシャファトの息子であるヨラムはユダの王として彼の父親の後を継ぎます。
紀元前845 (第2列王記 8:16).



ヨラムはユダの国を神に反逆した国家へと導いた邪悪な王となりました。
ヨラムの統治が2,3年続き、そしてエリヤが旋風で取り去られた後、ヨラムは王としての罪を警告される手紙をエリヤから受け取っているのです。この手紙に関しては歴代誌下21:12-15に書かれてあります。

お分かりでしょうか。
ヨラムはエリヤが旋風により連れ去られた後で王となり、そしてエリヤは彼が王位に就いている間に彼に宛てて手紙を書いたのです。
これが意味する所は、エリヤは旋風で空へと連れ去られた後でも、まだこの地上にいたことの証明になります。
彼は神のおられる天国へと連れ去られたのではありません。
エリヤは単にこの地上の別の場所へと移動させたに過ぎません。
(これと同じような出来事が、使徒業伝8:39でピリポにも起きています。)

私たちが検証せねばならない二人目の人物はエノクです。
多くの人々がエノクもまた天国へ挙げられたと信じています。
ヘブル書11章で、私たちは旧約の信仰の勇者たちのリストを読む事ができます。
エノクの名前もまたここに記されています。
5節では、彼の信仰のゆえ、5節では、彼の信仰のゆえ、エノクは移され死をみなかった、と書かれてあります。
彼が’移された”、というこの言葉はエリヤやエノクが移された事と同じ意味なのでしょうか。

答えを見つけるために、私たちは11章を読み続ける必要があります。
ヘブル11:13にはこれらすべての人々(この信仰の勇者のリストに記された人々)は死んだ、と書かれてあります。
ここでこの11章に記された人々全員が死んだと、はっきり言明しているのです。
もちろんエノクを含めてです。

恐らくエノクは一度は死を逃れていたのかも知れません。
しかし聖書ははっきりと、彼が最終的には死んだことを断言しています。
それはヨハネ3章でイエスが地上から天へと上った方は、ただイエス・キリストのみ書かれてある通りなのです。

実際、聖書のどこにも私たちが死ねば天国に行くとは書かれてありません。
むしろ聖書は死を意識のない状態として描写しているのです。
(詩編6:5、伝道の書9:5,10; 1、第1コリント15:20-23)そして私たちは新しい地でイエスとともに生きるのです。(ダニエル2:44、7:13-18;、ゼカリヤ14:1-4、使徒業伝15:15-17、黙示録11:15;19:15)



では死後の世界を経験した人々とはなんなのでしょう。
聖書は死とは意識のない状態だと言っています。ですからもし心臓の動きが止まっているか、もしくは呼吸が止まった状態の人がいても、彼らの脳は依然機能していて、それらの人々は聖書では生きている人とみなされています。
死の定義は明らかに脳が停止している状態を指します。


死後の世界を経験したほとんどの人々は、しばらくの間心臓が停止した状態でいた人々です。
(しかし彼らの脳は機能しています。)
そして蘇生したのです。
これらの現象を
研究した多くの科学者や医師たちは、臨死とは死に直面したことにより、身体が受けるショックによって引き起こされた脳と神経系統の機能不全のせいで経験する『死んだ状態』であり、また死後の世界とはその状態の時に感知する光と音であると結論付けています。


覚えておかなくてはならない二つ目のことは、サタンが地球を取り囲む霊的領域を操っているという点です。
サタンにとってニアデス(臨死状態)にある人々を惑わすために、偽りを示すことは容易なことです。
覚えておいて下さい。サタンの目的は私たちを真理から遠ざけることです。
彼は嘘つきで嘘を巧みに操る存在です。

ではイエスを信じない人々はどうなのでしょう。
聖書はイエスの再臨の時、最初に引き挙げられるのはイエスを信じた人々だと言っています。
(キリストに属する者ということです。第一コリント15:23)

次に引き挙げられる人々はイエスを信じなかった他のすべての人々です。
(キリストにある死者:第1テサロニケ4:16)
これらの人々は、福音を聞き、それを理解しながらも拒絶した人々です。


しかしここで一つの問題が浮上します。
正しい福音を聞く機会を与えられず、クリスチャンにならなかった人々はどうなるのでしょう。子供や赤ちゃんの頃に死んでしまった人達はどうなのでしょう。
イエスが生まれるずっと以前に生きて死んで行った人々は?
高い人格と徳を持ち合わせながら、何の宗教も信仰せずに死んで行った人々はどうでしょうか。
イエスの御名を一度も聞いたことがなかった人々はどうなるのでしょう。
神様はこれらの人々を公平に扱って下さるのでしょうか。
神様は人間全員に対し、公平に永遠の命を与えるための機会を下さるのでしょうか?
それとも神様は選り好みをして、特定の人々にのみ永遠の命を与えられるのでしょうか。


まず私たちが心に留めておかなくてはならない事は、”神はえこひいきなどなさらない方”だということです。
(ローマ人への手紙2:11)
神は公平で選り好みなどされません。
ですから誰もが公平に救いのチャンスを与えられるのです。
第1テモテ2:3-4 では、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられる、とあります。
もし多くの人達がイエスの御名を聞いた事がないとすれば、これはどのようにして成し遂げられるのでしょうか。


それではヨハネが”まず最初に蘇る”キリストに属する者たち、と言った言葉から見て行きましょう。
黙示録には、これらの人々はキリストと共に千年王国を治める、とあります。
(黙示録20:4-6)

残りの死者たちは、千年王国が終わるまで生き返ることはありません。
そう、残りの死者たちは千と年の統治の後まで生き返ることはないのです。
覚えておくべき第一の事柄は、私たちが今頂いている命とは、基本的には次の世界に至るまでの備えの命であるということです。

ペテロは私たちに、神の御心とは誰もが悔い改めることだと念を押しています。
「ある人達は遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせているのでは在りません。
そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
第2ペテロ3: 9.

パウロもまた私たちに「神はすべての人を不従順な状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」と教えてくれています。ローマ人11:32

これらの聖書の御言葉によると、二度目に蘇る一部の人々は神から救いを差し出されることになります。
千年王国の後、裁きの座が待っています。
マタイ 11:20-24でイエスはソドムの地の人々(旧約聖書の中で罪ゆえに神によって滅ぼされた街)裁きの日にはソドムの地の方がより良い、と言っています。


ソドムの地の人々は神について、もしくはイエスについて知っていたわけではありません。
またニネベやゴモラ、そして南の国の女王に関しても同じ視点で読むことが出来ます。
(マタイ10:14-15; 12:41-42.)

イスラエルと残りの人々は神を捜し求めるでしょう。
これらの人々は、イエスを受け入れるための正当な機会が与えられることになります。
彼らは聖書に対する正しい理解が与えられるのです。 (黙示録20:12, ルカ24:32と比較して下さい。)

悲しいことに、これらのこと全ての後でも、神の救いを拒絶し続ける人々が存在することになるのも事実です。
けれどもそれは彼ら自身の選択です。
神はすべての人々がご自身を知るようになることを望んでおられます。
神は公正ですべての人々に等しくご自身との関係を持つことが出来るよう、その機会を与えられるのです。

http://blue.ap.teacup.com/hamiel/5.html

 
 

携挙

 投稿者:はるみ  投稿日:2010年 8月25日(水)19時46分38秒
編集済
  幾つかの教会では携挙に関することはいっさい語らない所もあります。しかし聖書は明確に携挙が起こると語っています。
一方携挙について語るほとんどの教会では、携挙が大艱難期前に起こると教えています。しかしこのような解釈は非常に新しいもので、ほんの100年前から始まった教えなのです。
それ以外の長い聖書の歴史と初代教会の教えは一貫して、携挙は大艱難期の後(もしくは大艱難期後半)に起こるというものでした。(携挙が大艱難期前期に起こるという考えは、約100年ほど前にアイルランドの少女が夢を観たことから端を発しました。)

では、聖書が携挙についてなんと言っているかを見てみましょう。
第一テサロニケ 4:16-17を開いて下さい。
16節:「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降りて来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人達が、まず最初に復活し、」
17節:「それから私達生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に霊に包まれて引き挙げられます。このようにして、私達はいつまでも主と共にいることになります。」

それでは次の章を見てみましょう。
第一テサロニケ 5:1-2
1節:「しかし兄弟達、その時と時期について、あなた方は書き記す必要がありません。」
2節:「盗人が夜やって来るように、主の日は来るという事を、あなた自身よく知っているからです。」

私この文脈全体を読むならば、パウロが携挙のことを「主の日」と呼んでいるのが分かると思います。私達はこの主の日というのが、携挙が起こるときであると知っています。次にこの主の日がいつ起こるかということを探してみましょう。
それでは、旧約のヨエル書3:4を開いてみて下さい。
「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。」
この節と同じような言葉を、イザヤ13:9-10で確認してみましょう。
「見よ、主の日が来る。残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ、そこから罪人を絶つために。」
「天のもろもろの星とその星座は光を放たず、太陽は昇っても闇に閉ざされ、月も光を輝かさない。」
(主の日とは、太陽も月も暗くなった直後だということです。)


イエスご自身がマタイ24:29-30の中で、太陽と月が暗くなる、と言ったこの二つの星の同時の出来事を用いて、主の日と携挙の起こる時について語られています。
「その艱難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」「その時、人の子のしるしが天に現れる。そして、その時、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」
<キーポイントその1>
イエスはここで、『その艱難の日々の後』と言っておられます。
私達が聖書を学ぶ時、私達はある節だけを取り上げてみるのではなく、それが聖書全体が語る文脈に沿って、符号しているかどうかを確認しなくてはなりません。

では、見てみましょう。

第1テサロニケ4:16 には:
「・・主ご自身が天から降りて来られます。」
そしてマタイ24:30では:
「 人の子(イエス)が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」

この二つの節のどちらもが、イエスが天から来る事を語っています。

第1テサロニケ4:16:
「大天使の声とともに(声が聞こえて)」
マタイ24:31:
「人の子は・・天使達を遣わす」
この節では、どちらも天使について触れています。

第1テサロニケ4:16:
「神のラッパが鳴り響くと・・」
マタイ 24:31
「大きなラッパの音を合図にに・・」
ここでは、どちらもラッパについて描写しています。

第1テサロニケ4:17:
「次に生き残っている私達が、たちまち雲の中に一挙に引き挙げられ・・」(携挙)
マタイ24:31:
「その選びの民を集めます」(携挙)
この節は、どちらも携挙について触れています。

この第1テサロニケとマタイのどちらにも、共通した内容の節があるのにお気づきだと思います。
この二つのともに、天使がラッパを吹き、イエスが雲に乗って戻って来られ、そして携挙が起こる様子が描写されています。どちらも同じ出来事です。これが『主の日』です。
主の日、つまり携挙は大艱難期の後に起こります。
これらの二つの節の中では、ラッパについても語られています。聖書は明確に、携挙が最後のラッパの吹かれた後で起こると語っているのです。大艱難期の期間には、七つのラッパが天使達によって吹かれます。
携挙はこの最後のラッパの時に起こるのです。

第1コリント15:52:
「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものとされ、私達は変えられます。」(携挙)

では続けて第1コリント 15:53-54も確認してみましょう。(携挙についての節です)
53節:「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」
54節:「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着る時、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利に飲み込まれた。』」

この最後の節に書かれてある、『死は勝利に飲み込まれた。』の意味を理解する事は、とても重要です。
パウロはこの言葉を、イザヤ 25:8から引用しました。
「死を永久に滅ぼして下さる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上から拭い去って下さる。
これは主が語られてことである。」

もしあなたがこのイザヤ54章全体を読んだなら、それが携挙について語られたものだということに気がつく事でしょう。もう一度言いますが、携挙は大艱難期の後に起こります。パウロはイザヤからの引用により、そのことを理解していました。
「主は(原文では勝利の内に)死を永久に滅ぼして下さる。 /
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、/御自分の民の恥を、地上から拭い去って下さる。」
ヨハネもまた黙示録 7:17で、このイザヤ書の御言葉を引用しています。
「神が彼らの目からことごとく拭われるからである。」

このことを覚えておいて下さい。この涙を”涙を拭われる人々”とは、黙示録 7:9に書かれている大群衆のことです。では、これら二つの節の大群衆とは、誰のことでしょうか?
黙示録6章を読めば、太陽と月が暗くなると書かれてある文章を見つけると思います。これは、「主の日」について触れているのです。そして黙示録の文脈を読み続けたなら、この大群衆とは携挙された人々であるということが分かる筈です。
聖書の中で携挙について述べている箇所は、すべて同じ順番で書かれています。
1. まず、太陽と月が暗くなる、ということ。
2. それが「主の日」に起こるということ。
3. そしてその日最後のラッパが吹かれるということ。
それらが全て起こった後で、イエスが戻って来られる(地上再臨)ということ。

余談ですが、携挙と地上再臨は、同じ「主の日」に起こります。
このような疑問を抱く方がおられるでしょうか。「クリスチャンが引き揚げられた後、天上ではキリストの御座の裁き」が行われ、またイエス様との結婚式も行われるのに、なぜそれらすべての事がたった一日で起こりえるの?」と。
繰り返し言いますが、まず携挙とイエスの地上再臨は同じ日に起きても、別々の出来事です。
そして霊的な世界では時間が存在しません。霊的な世界ではとても長い時間がかかる出来事でも、この地上での時間で計ったら、一瞬の出来事とも言えます。またその逆も有り得ます。
ですから、一日のうちに携挙と地上再臨が起こることは可能なのです。
そしてそのどちらもが、「主の日」に起こる出来事です。

聖書に矛盾はありません。これら全ての出来事は同じなのです。ここから、私達は携挙がイエスが語られた通りに起こるということを、理解することが出来ます。
「その艱難の日々のあとで・・」

それでは、第2テサロニケ2:2-4を開いてみて下さい。
2節:「霊や言葉によって、あるいは私達から書き送られて来たという手紙によって、『主の日』はすでに来てしまったかのようにいう者がいても、すぐに動揺して分別をなくしたり、慌てふためいたりしないで欲しい。」

3節:「誰がどのような手段を用いても、騙されてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり滅びの子が出現しなくてはならないからです。」
4節:「この者はすべて神と呼ばれたり、拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。」

ここでパウロは私達に多くのことを語ってくれています。
まず2節ですが、彼は私達に主の日について心配する必要はないと言っています。
主の日の真実について、騙されてはいけないとも言っています。
そして3節、パウロは主の日の前には二つの事が起こると言って警告しています。
<その1>
最初に神に対するとてつもない反逆が起こるであろう、ということ。これは多くのクリスチャン達が信仰を失ってしまうということです。どうしてこのような事が起こり得るのでしょうか?一つは偽教師によって、惑わされる事態が起こる事が考えられます。(これについては、また後ほどお話しましょう。)
〈その2〉
また、パウロは主の日の前には反キリストが現れるとも、語っています。

お分かりですか?反キリストが現れる時、まだクリスチャンは地上にいます。そして多くのクリスチャン達が神を信じる信仰から離れて行ってしまう、と言っているのです。

もしほとんどのクリスチャンが大艱難期前に携挙が起きると考えたら、私達は大艱難期に対して備えることをしなくなるでしょう。そしてもし備えが整っていなければ、反キリストに従わせるように騙すことは、敵にとっては容易なことなのです。多くのクリスチャン達は、聖書の方が間違っていると考えるようになるでしょう。なぜなら信じていた携挙が起こらないからです。彼らは神から背を向けて行くことになります。
恐らく私が思う以上に数多くのクリスチャン達が、たくさんの誤った教えによって惑わされることになり、
大艱難期が始まった事にすら気がつかず、反キリストに従うこととなるのでしょう。



稀な教えではありますが、携挙がニ度起きる、という教えもあります。一つは神に従順な信仰深い、”良いクリスチャンのため”に起こる携挙、そしてもう一つは”それほど良いクリスチャンではない人達のため”に起こる携挙です。この教えもまた間違っています。もしあなたが全ての聖書箇所に目を通すなら、今回のこの学びでお話ししたように、 聖書のどの箇所をとってみても携挙はただ一度のみで、それが主の日(主の時とは別のものです)に起こることは、お分かり頂けると思います。

ほとんどのクリスチャン達が、神は私達を愛して下さっているので、ご自身の教会(クリスチャン達)が艱難期を通られるのを、お許しになるはずがないと考えています。もしあなたもそのように考えているなら、それはあなたが聖書をよく読んでいないか、もしくはキリスト教の歴史を学んだ事がないせいです。

神が私達を愛して下さっているのは真実です。しかしイエスは、この世界では私達は多くの困難を被ると言われました。しかし彼は私達とともにいて下さり、どのような困難な時にも助けて下さいます。
(彼は一度も私達から問題を取り除く、とは言われませんでした。)

新約聖書に登場するイエスに従った者たち(ヨハネを除いて)の誰もが殉教を遂げています。
初期のクリスチャン達はみな、ローマ人達からの酷い迫害にさらされました。そして今日でさえ、中国やイスラム圏内に住むクリスチャン達は、死に直面する迫害を受けています。神は彼らを愛しておられます。そしてどんな迫害の中にあっても、主は彼らが困難に立ち向かうために恵みを与えておられるのです。

次に、携挙が大艱難期前に起こると語る人々は、よくノアが洪水から守られたことを理由に、私達も守られると信じている場合が多いようです。もう一度言いますが、聖書をよく読んで下さい。
そのような事は、聖書のどこにも書かれてありません。
ノアが洪水から守られたことが、イコール携挙と理解するのは飛躍が過ぎます。
考えてみて下さい。洪水のさなか、彼は地上から取り去られて守られたのでしょうか。いいえ、彼は地上にいました。彼は嵐の中に置かれて、そして守られたのです。神の恵みとは、嵐を遠ざけることではなく、嵐の中で私達が神を体験し、信仰が増し加えられるということです。
私達は神の恵みの意味を正しく理解し、神に焦点を合わせる事を学ばなければなりません。

また、私達は、弟子達がしばしばイエスを幾度となく失望させたことを、思い出さなくてはなりません。
なぜなら、彼らは時のしるしを理解出来なかったからです。聖書にこんなにも多く終末について書かれてあるのは、神が私達にそれを理解して欲しいからです。
私達は、大艱難期を通ります。
神が、私達が大艱難期を通ることを望まれているのです。
なぜならば神は私達が世界中の人々に向けて、ご自身のための証人として立ち上がることを望まれているからです。

神はこの世界のすべてを愛しておられます。ヨハネ3:16

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異言

 投稿者:はるみ  投稿日:2010年 8月21日(土)03時17分53秒
編集済
  一部では異言について教えたり、またそれを練習したりすることを避けている教会があります。
またある教会では異言を積極的に語りますが、残念な事にこれらの教会のほとんどが聖書的な教えに沿わない形で実践している所が多いようです。
では、聖書が異言について、どのように教えているかを見てみましょう。

聖書の中で異言について初めて言及されたのは、イエスの復活後のことです。(マルコ16:17)
つまり、異言は「新しい契約」の一部である、ということです。では、異言を語る本来の目的とは、どのようなものなのでしょうか?

私はこれまでに、多くの人達が異言とは天国で用いられている天使の言葉であり、異言で祈ればその祈りの内容をサタンに知られる事なく神に届けることが出来る、と教えているのを聞いて来ました。
しかし、これは真実ではありません。

サタンはかつて天国に住んでいた者であり、今神に仕えている天使達のような存在だったのです。
彼は天国で使われている言語を理解することが出来ます。事実、聖書を読めば神の真実なしもべ達は、いつも大声で祈っていました。彼らは決してサタンを恐れませんでした。神がより強い方であるという事を知っていたからです。
私達は、サタンから隠れる必要はないのです。
むしろ、サタンには私達が神に属する者であることを知らせるべきです。
私達の祈りとは、私達の信仰の宣言でもあるのです。

また、私は異言に関して次のようにも教えられた経験があります。
私達が異言で祈るなら、雑念が取り払われ、より効果的で直接的な祈りを捧げることが出来ると。
これもまた真実ではありません。神は私達に、理由があって思考するべき脳を与えて下さったのです。
神は私達が自分たちの脳を、正しく用いることを望んでおられます。
聖書は私達が祈るときは、信仰と感謝を持って祈るように、と教えています。私達が理解できないことを通して、どうして信仰を現す事が出来るでしょうか?もしくは、理解できないことを通して、どうして感謝を捧げる事が出来るのでしょうか。
聖書は私達に、異言の本当の意味と目的を教えてくれています。
もしそれについて初めて読むという方があれば、どうぞマルコ16: 17を開いてみて下さい。
イエスは「信じる人々は新しい言葉(異言)を語る」と言っています。ここで使われている異言とは、ギリシャ語では”実際的な言語”という意味の単語です。つまり信じる者は、外国を話すだろう、とイエスは言っているのです。

次に新約聖書の中で異言という言葉が使われたのは、使徒2:4-13においてです。
ここにおいても、ギリシャ語で”(実際的な)言語”という言葉が使われています。
これらの聖書箇所で、信者達は一度も学んだ事のない、この地上で使われている外国語を話していました。
しかし、これらの外国語を母国語とするネイティブスピーカー達には、彼らがイエスの福音を語っていると理解することが出来たのです。そして多くの者達がその日に救われました。つまり、異言とは、神から未信者へ贈られたる”しるし”のようなものなのです。信者のためのものではありません。(第1コリント14:22)

また、別の興味深い点なのですが、多くの教会の中で異言を語り同時に霊に酔うことを良しとしている所があるようです。それを正当化するために、これらの人々は使徒2:13を主張します。
しかし、もし13節を読むならば、ここで使途を’彼らは酔っぱらいのようだ’と言ったのは未信者の野次馬達である事が分かるはずです。彼らは神をもあざけ笑う者達でした。使徒たちは、霊に酔っていたのではありません。
彼らの意識ははっきりしていました。

初めに言いましたように、異言を語ることを認めている教会では、霊に酔うことも良しとしている所が多いのは事実です。極端な場合、異言で叫びながら飛び跳ねたり、転げ回ったりする人達もいます。このような人々は本当に酔っぱらっているように見えますし、もう自分で自分を制御出来なくなってしまっています。
皮肉な事に、このような状態に陥ってしまう人々は日常生活においても自制心がきかず、お酒に溺れ、他人に対して簡単に怒りっぽくなってしまうようになるのだそうです。これは一種の催眠術です。

いずれにしても、このような状態になることが聖書的だと言えるでしょうか?
いいえ、決してそうではありません。
まず初めに私達が理解しなくてはならないのは、聖書に矛盾はないということ、つまり神の言葉には決して矛盾は生じないということです。
神は秩序の神であるがゆえ、聖書は常に明確なのです。

第1コリント 14:40「すべてのことを適切に、秩序を持って行いなさい。」

第1コリント 14:33「それは神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」

分かりますか?教会の中に混乱があってはならないのです。
どうぞこの33節が異言について述べられているものだということを、忘れないで下さい。

また聖書は私達に、”霊を吟味するように”と警告しています。(第1ヨハネ4:1)
この御言葉は教会に向けられて語られているものだ、ということをよく覚えておいて下さい。
つまり、”霊を吟味しなければならない”のは、言い換えるなら教会の中に邪悪な偽りの霊が入り込み、クリスチャン達を欺こうとするからです。しかし残念なことに、私は教会の中で異言を語る人々が、”その異言がどこから与えられているものか”について真剣に吟味している様子を、一度も見た事がありません。
彼らはただ湧き上がる現象や言語を、何の疑いもなく神からのものだと信じ込んでいるのです。

先ほども触れましたが、極端な所に行くと、ある人々は異言を叫びながら荒れ狂ったようになり、床に転げ回り、そしてその’異言’とする同じ単語を繰り返し繰り返し口にします。
そこにはもはや秩序はなく、ケオスがあるだけです。決して聖書的ではありません。
お分かりですか?聖書は「預言者達の霊は預言者たちに服従する」と言っています。(第1コリント14:32)
つまり、聖霊があなたに臨む時、あなたはいつも自分の意識を自分でコントロール出来る状態にいる、ということです。聖霊は鳩のように穏やかで、紳士的な人格の持ち主です。もしあなたが”霊に満たされて”いても、自制心を失うようであれば、それは聖霊ではありません。あなたはサタンの霊に支配されているのです。
(それゆえ、霊を吟味することは大切なのです。)

また私はある人々がこのように言うのも聞いた事があります。
ダマスカスに向かう途上で神がパウロに顕われた時、パウロは馬から落ちて地面に叩き付けられ、そして盲目になったが、その様子が現代のこのような教会と同じものだ、という主張です。
しかしパウロは自由意志を持って神の霊と会話し、そして声の主が誰であるかと尋ねたのです。
つまり、このときのパウロは、自分の意識を自分で完全にコントロールしていました。
神の霊があなたに臨む時、あなたは常に自分の意識をコントロール出来ます。
そして物事はすべて秩序の中にあるのです。

では、パウロが異言について何と言っているのか、第1コリント12章、13章を通して確認してみましょう。
これらの章の中で、パウロは大部分を異言について述べています。
第1コリント14:23では、「もし教会全体が一カ所に集まってみなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来た時、彼らはあなたがたを気が狂っている、と言わないでしょうか。」
常識的にみて、もしあなたが誰か狂った人がこの教会にいると感じたら、あなたはその教会には近づきたくないと思わないですか?だからパウロはここでガイドラインを示しているのです。
異言を語るときは一人から多くて三人までで、しかも順番に1人づつ話すべきであると言っています。
そして異言を語るときは、それを解き明かす者がいなくてはなりません。
もし解き明かす者がいないのであれば、異言は語るべきではないのです。
本来の異言の目的は、未信者に対して証し人となるためです。(しかも語られるべき異言は、地上で実際に使われている外国語です。)パウロは、異言は教会の礼拝内で用いられる事は、ほとんどなかったと言っています。

多くの人々が、1人で祈るときなどは異言で祈るのが好きだといいます。その方がむしろ深く祈れると言うのです。覚えておいて下さい。異言は未信者の前で証し人となるために用いられるものです。
個人的な祈りのためではありません。1人でいる時に異言で祈る事を好む方がいたなら、私はそれがどれほど危険な行為かを警告しなければなりません。

異言で祈るほとんどの人の特徴は、彼らの異言は多いにして同じ言葉(もしくは音)を繰り返すものです。
通常、自然な言語であれば言葉には流れがあり、また多くの単語が連っているはずです。
そして、それには文章としての形態があります。各流れが節として、成立されているはずなのです。
しかしほとんどの場合、異言と信じて語られているものは、ほんの2,3の単語か音がチャントや呪文のように繰り返し唱えられているだけです。
イエスは同じ言葉を繰り返して祈らないように、と警告されました。(マタイ6:7)

大切な事なので、よく聞いて下さい。
あなたがクリスチャンであるなら、あなたの霊の中に聖霊が住まわれています。
しかし、あなたの魂(意志/感情)や体が悪霊に支配されている場合もあります。聖書をみると、これらの悪霊は実際に声を出すことが出来ます。(イエスは彼らに語り、そして彼らはイエスに声を出して答えました。)
ですから悪霊があなたの中に入り込み、あなたを通して語ることもあるのです。
もし悪霊があなたを通して語ったなら、それは決して良い意味の言葉ではありません。(大抵は呪いの言葉です。)
また、同じ言葉を繰り返し発話する事で、あなたの声は振動(波動)を起こし、あなたの松果体が開かれ、ますます悪霊の活動を活発にさせる恐れがあるのです。
これはヨガによる瞑想やヒンズー教の恍惚状態となんの違いもありません。サタンは光の天使を装ってやってくる、という聖書の言葉を覚えていますね?サタンがあなたを惑わすために来る時は、邪悪な雰囲気は微塵も見せません。
良きもの、美しいもの、気持ちの良いものとして、現れるのです。

私は個人的に異言の力を信じていますし、その賜物を用いることを否定しているのではありません。

ただ今回これらのことを書いたのは、みなさんに霊を吟味する大切さと、聖書を自分できちんと調べることの重要さを知って頂きたかったからです。多くの人が「私が異言を語るのは、私の牧師/教会が異言で祈るようにと勧めてくれるからです」と言います。
どうぞ、人に従うのではなく、聖書に従って下さい。

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什一献金について - Part2

 投稿者:はるみ  投稿日:2010年 8月21日(土)03時10分1秒
編集済
  まず最初に理解しておいて頂きたい重要な点は『新約聖書と旧約聖書には大きな違いがある』という事です。
もっと正確に言うならば、旧約聖書とは「古い契約」のことであり、また新約聖書とは「新しい契約」を意味しています。

このヘブル人の書物は、古い契約とは人類が (イエスを除いて) 決して完成することが出来ない、つまりそれを通してでは決して救われる事は出来ないという事を私達に教えてくれる為のものでした。(ヘブル8:7-12)神は私達に、人間にとってイエスの救いがどれほど必要なものかを示すために、この古い契約を与えて下さったのです。

新しい契約とは、神の恵みのことです。
これは神が与えて下さった無償の贈り物であり、誰もこの贈り物を受け取るにふさわしい者はいません。
また人類はこの恵みを、自分の力で作り出す事も出来ません。
しかし、神の恵みにより、主はイエスの血を通して私達に救いを与えて下さったのです。恵みとは、私達が罪を犯しても許される、という免許書のようなものではありません。それは、私達が罪に打ち勝つ力を与えてくれるものなのです。

覚えていて下さい。契約には二種類あるということを。
古いものと新しいものです。私達が聖書を開いて御言葉を読む時、常にこの観点から聖書を理解することは、とても重要な事なのです。

それでは、この観点を持って什一献金について、学んで行きましょう。

什一献金に関しての、有名な聖句があります。

※「人は神のものを盗むことが出来ようか。ところが、あなた方はわたしのものを盗んでいる。
  しかも、あなた方は言う。”どのようにして、私達はあなたのものを盗んだのでしょうか。”
 それは十分の一と奉納物によってである。」(マラキ 3:8)

この節はお金について語られているのではありません。もしマラキ書の最初の章を読むならば、祭司達が盲目や足萎え、病気の獣を捧げていた場面があるのを、お分かりになるはずです。彼らは神に最高の捧げ物をすべきであったにも関わらず、持っている物の中で最悪の物ばかりを捧げていました。それによって、神はこれらの祭司を盗人とみなしたのです。
またこれはレビ記の中の律法に定められた、十分の一の捧げ物に関連している箇所です。ここに書かれている言葉は、病気の獣を捧げるなどをした、心の疾しい祭司達に対して向けられた言葉なのです。


※新約聖書があなたに求める捧げものとは、あなたの心から出てくる行為であって、什一献金の事ではありません。

※旧約聖書に記されている什一献金とは、収入の十分の一ではありませんでした。それは、あなたが特別に利益(お金に関わらず)を得た時にのみ、その10%を捧げるものでした。 (申命記 14:22)
もしあなたが日常的な利益しか得ていないのであれば、十分の一の捧げ物をする必要はなかったのです。

※聖書のどこをみても、アブラハムが十分の一の捧げ物をした、という箇所はありません。
唯一記録されている箇所は、彼が戦争に行った際に得た戦利品の10%を捧げたと書かれてある箇所だけです。
(創世記 14:16-20)

※十分の一の捧げものとは、食物であり、お金ではありませんでした。(申命記 14:22-26)

※聖書は、特別に得た利益の10%で好きな食べ物(強い酒であれ)を買い、感謝を捧げるために主の前でそれらを食べなさい、と命じています。(申命記14:22-26)

※三年毎にイスラエルの民は収穫の十分の一を、ラビ族(祭司達)に捧げることを求められました。ラビ族は土地を所有していなかったからです。そして祭司達はその捧げられた物の中からさらに十分の一を、大祭司に捧げなければなりませんでした。

※もし捧げる側の者がレビ族出身であれば、祭司達はその人の十分の一の捧げ物を受け取る事は出来ません。それを違反する事は、罪でした。ですから現代の牧師達が、もしラビ族の血を引く者たちでないのであれば、彼らが什一献金を受け取ることは、冒涜行為になるかも知れないのです。

※一年に一度、十分の一の捧げ物は貧しい人々に直接手渡されました。

※新約聖書において、私達はもはやレビ族の律法の元には生きていません。神殿は破壊され、今いるまことの大祭司はただ1人だけです。そう、イエス・キリストです。私達はもう十分の一を捧げる必要はないのです。
私達は今はレビ族の律法ではなく、愛の法の元に生きる者たちです。
私達が神から受けている命令とは、私達の心を捧げることであって、形ある物の十分の一といったものではありません。神はなぜ私達の心を捧げる事を望まれているのでしょうか?それは捧げる側と神との関係(絆)を、深めるからです。

それでももしあなたが、聖書に書いてある通りに捧げ物をするべきだと信じるならば、あなたはモーセの律法に沿って忠実に、正確な捧げ物をしなくてはなりません。(申命記 14:22-29)
そうでなければ、律法違反で罪を犯す事になるのです。律法は一つでも行うならば、すべてを完全に全うしなければ神の目には、罪とみなされます。
そしてこの節には明確に、捧げ物は(通常の収入からではなく)特別収入からの10%でなければならない、と書かれてあります。それで食料を買い、そしてそれを主の前で食べるのです。
またある時は定期的に、あなたは特別収入の一部を個人的に貧しい人々や未亡人、孤児達に分け与えなければなりません。そして、時にはレビ族出身の誰かにも捧げなければならなくなります。

現代では、牧師達がレビ族の祭司達と同じ立場にいる、という人々がいます。けれど、これは正しい主張ではありません。もし牧師達がレビ族の生まれでないなら、彼らはあなた方の捧げ物を受け取ってはいけないのです。
もしあなたの牧師がレビ族の血を引いていないにも関わらず、聖書に従って十分の一を捧げるように言うのなら、あなたはお金ではなく、食べ物をその牧師に捧げるべきです。

新約聖書をみると、パウロは福音の拡大のためにあちらこちらを旅してまわりました。
けれど彼はテントを作り、それを売って自分で生計を立てていました。彼に贈り物を贈ったクリスチャン達もいましたが、それは彼を祝福するための愛の行為であって、十分の一の捧げ物とは関係のないものです。
パウロもそのような贈り物を感謝して受け取ることがありましたが、しかし彼は決して他者からの贈り物に依存などはしていませんでした。彼は経済的に自立していたのです。

新しい契約とは、『心からの贈り物』についての契約なのです。

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什一献金について

 投稿者:はるみ  投稿日:2010年 3月 2日(火)12時32分25秒
  まず、什一献金についてです。申命記14: 22-29  を開いて下さい。

この箇所で神様は、人々の収穫を捧げる事とその収穫の10分の1を取り分け、それを食べる事について語っています。
もしあなたが示された場所から遠く離れ、収穫を運んで行く事が出来ないならば、それを売ってなんでも望むものを、主の前で食べなさいと、言っています。

10分の1の捧げものは、ユダヤ人がイスラエルの上に注がれる祝福を、祭りを行って祝うためにありました。

また、三年ごとに祝福を受けた人々は、貧しい人々のため捧げものをしました。

もしみなさんが今それほど祝福を受けていない、もしくは捧げるには経済的に苦しい状況にあるならば、献金はする必要はないのです。

捧げものはほんの三年ごとに行われた事で、そしてそれは貧しい人々や神殿のラビに与えられました。
今日では、神殿はありません。シナゴーグで教えるユダヤ人のラビ達は、こういった献金や捧げ物は受け取りません。なぜなら、もはや神殿がないからです。
ラビ達は律法の厳しさをよく理解しています。

新約聖書において、什一献金(10分の1の捧げ物)を継続するような命令は、どこにも書かれていません。
そのかわり、初代教会の時代にはクリスチャンは互いの家に集まりました。
彼らは自分達の所有物を売って、困っている人々に分け与えたのです。
弟子や長老達はそれぞれ職業を持ち、自分で自分達の生活を支えていました。
彼らは決して、捧げられたものを自分のものにする事はありませんでした。
神様に導かれた時にだけ、信者達は彼らに捧げ、彼らも受け取る事がありました。パウロは信徒から贈り物を受け取る事もありましたが、けれど決して自分から頼んだ事、要求した事はありません。
新約聖書の人々は、誰も什一献金は捧げていません。神様に特別に示された時だけ、収入の割合に関係なく捧げました。そしてそれは通常困っている人々に与える時でした。
(年老いて働けない人々や貧しい人々などです。)

10分の1の捧げ物について書かれてある他の聖書箇所も知っていますが、(それらについての箇所は特に、正確な翻訳で読まなければなりません)、旧約の中のそれらのどの箇所も定期的な収入(お金)ではなく、土地や穀物などの収穫物だけについて陳述しています。
 

契約の箱とイエスの血

 投稿者:はるみ  投稿日:2010年 3月 2日(火)12時12分9秒
編集済
  アーク・オブ・カバナントとは、契約の箱のことです。
(箱の上部両脇には、二つの天使の像がありました。)
これはモーセが10戒を入れていた箱です。そしてそれは、至聖所に置かれていました。
至聖所とは、神が臨在されていた場所です。
年に一度、祭司は傷のない子羊の血をもって至聖所に入り、その血を契約の箱の上に振りかけました。

その契約の箱は、バビロン捕囚(エレミヤの時代)が起きた際に、失われました。
バビロンがこの契約の箱を見つける前に、祭司たちが契約の箱をどこかに隠したと言われています。
しかし、どこに隠したかは、誰にも分りませんでした。

アメリカ人考古学者のロン・ワイアットはこの契約の箱を1980年代に発見しました。
それは、バビロン捕囚から数百年後、イエスが十字架にかかった場所の地下から発見されました。
彼の血は、罪を取り除く最後の子羊の血となったのです。彼が十字架で流した血は、地震(イエスの死の瞬間地震が起きました)で割れた地面に染み込み、そのまま十字架の真下の地下に埋められていた契約の箱の上に流れて行ったのです。

ロン・ワイアットは化学検査で、この血がまだ生きていることを発見しました。
通常ならば、人間の血液は冷凍保存していなければ、体から流れたものはすぐに死んでしまいます。
そうです、イエスの血は2000年の時を経ても生きていたのです!
ロンは、イスラエル政府がその契約の箱の発見を知り、またそれが世間に公表されれば、ユダヤ人達がエルサレムにある”岩のドーム”寺院を攻撃しかねないことを恐れました。
つまり、この契約の箱に振りかけられた血は、ユダヤ人にとってイエスがメシア(救い主)であることを証明するためのものですから、それを受け入れる準備ができていないユダヤ人達が、ユダヤ信仰とイスラエル政府を破壊させるのではないかということに、恐怖を覚えたのです。

契約の箱に付着していた血液には、たった23種の染色体しかありませんでした。
(一般的には人間は46種の染色体があります。そのうちの23種は父親から来るもので、もう23種は母親側から来るものです。)
契約の箱にあった血液には、母親側からの23種の染色体があるのみでしたが、しかしたった一つだけ"Y"  の染色体があり、このたった一つの"Y"  は人間の男性が持つものではありませんでした。
しかし、男性のものであったことは確かです。
これが意味する事は、その血液にあった染色体のすべてが母親側一族から来たものだということです。
そしてたった一つのY"が、この血液を持った人間が男性であったことを可能にしています。
(イエスは男性でした)

http://www.fgtc777.com/kategori/siraberu/denwa-chou.htm

http://homepage3.nifty.com/newSDA/hyatt.htm

http://blue.ap.teacup.com/hamiel/5.html

 

聖書の読み方 : How to read the Bible

 投稿者:はるみ  投稿日:2010年 3月 1日(月)06時10分46秒
編集済
  あるアメリカの調査機関によると、クリスチャンが聖書を読む平均時間は一ヶ月に5分間という事でした。
(この時間は教会内でのものは含まれておらず、あくまで個人の自由時間に読む時間です。)
なぜこれほど聖書に触れる時間が少ないのか、その理由はほとんどの西洋人クリスチャン達が、聖書の読み方を知らないことにあります。

私たちが聖書を読む時、導いて下さり教えて下さるのは聖霊であることを忘れないで下さい。

ただ、聖書を目で追って読むだけでは、真理は見いだせません。
例えば、あるアメリカの教会では、聖書に「クシスチャンは蛇をつかみ害を受ける事はない」(マル16:18)と書かれてあるからという理由で、毒蛇を使って踊りを踊ったりします。
聖書の表面を抜粋して、そのような踊りを踊るのです。

もしくは、私がまだ文学部の学生だった頃、大学の教授が聖書を読む場に同席しましたが、その人達のほとんどが聖書の語る本当の意味をきちんと理解していなかったことに気がつきました。
彼らにとっては、聖書はシェークスピアのような”素晴らしい一冊”に過ぎなかったようです。

ですから私たちは、誰かにただ聖書を渡したり、もしくは聖書の御言葉を語ったからといって、その人たちが神のことばを理解してくれると期待しては行けません。
使徒行伝には一人で旧約聖書を読み解こうとしたけれど、理解する事が出来なかったエチオピア人の男性の話が書かれてあります。(使徒行伝8:26-40)
ピリピは聖霊に導かれ、そのエチオピア人男性のもとにやって来ます。
そして、彼に聖書が理解できるか尋ねました。
エチオピア人男性は、「導いて下さる人がいないのに、どうして理解することが出来ましょう」と応えています。

聖書学者でさえ、ガイダンスを必要とします。ヨハネ3章では、イエスはニコデモ(律法学者であり祭司)と話をしています。10節でイエスは行っています。「あなたは教師でありながら、こんなこと(単純な霊的真理)も解らないのか」と。

ヨハネ5:39-40では、イエスは私たちに聖書を理解するための『鍵』を下さっています。

これらの箇所では、イエスは律法学者やパリサイ人と話をしています。
イエスは「あなた達は聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。
ところが、聖書はわたしについて証するものだ。それなのに、あなた達は、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
(ヨハネ 5:39,40).

聖書を読む目的は、私たちが永遠の命を得る方法を示してもらうためでもなければ、私たちが賢くなるため、またより良い人になるため、聖なる者となる為ではない事は、明らかです。
それは、イエスが顕われるためなのです。イエスご自身が鍵です!ヨハネ15:15は、私たちはイエスの友達だと言っています。
私たちは、個人的にイエスを知るべきなのです。

何年もかけて聖書を研究し、それについての本も数多く出版しているような神学ものがいますが、聖書の単純な霊的真理を理解していない人たちがいっぱいいます。(彼らは、ただより賢くなりたいのかも知れません)、

しかしその一方で中国のような貧しい国には、文盲者がいっぱいいますが、聖書の単純な霊的真理を深く理解できる人たちがいっぱいいたのです。
彼らはイエスだけを見ていたからです!
「新たに生まれなければならない!」という言葉の意味を、彼らは見事に理解していました。

第二コリントは私たちに、福音は”キリストのシンプルさ”そのものであることと、知性を使うことへの注意を促しています。

では、どのように聖書を読むべきか、そしてどのように理解すべきかについて少しお話しましょう。

ここに聖書を読みながら問いかけるべき三つの大切な点があります。



1. 誰が語っているのか?
2. 誰に対して語られた言葉なのか?
3. 主題は何なのか?(文脈は何なのか?)

この三点は非常に重要です。なぜなら聖書の中に書かれているすべてが真実とは限らないからです。
たとえば、聖書の中では悪霊が語っています。彼の言葉は真理ではありません。
ヨブの三人の仲間達の言葉も引用されていますが、後に神は彼らの言葉は真実ではない、と言いました。
ですから、もしだれかがヨブ記のほんの数章だけ拾い読みしたなら、それらは神からの
偽りの証をすることになってしまうのです。

ヨブ自身でさえ彼の物語の中で多くの事を語っています。
しかし、最後に彼は自分の言葉が間違っていたと撤回しているのです。
ですから私たちは、文章の前後関係を良く見て、そこで何が語られているのかを良く知らなければなりません。
けれど、多くの人がヨブ記から言葉を引用しています。
特にヨブの三人の友達が彼の所にきて、「神があなたを呪っている、あなたの罪のせいで」と言ったセリフの部分をです。ヨブ記の物語の最後で、神はこれら三人の友達に怒り、彼の罪のせいで呪ったりはしなかったと言っています。

神は、この箇所が聖書に記されることをお許しになりました。
なぜなら、ある日、私たちが問題を抱えたときに”友達”と称する人々が私たちの元にやってきて、「あなたの今ある問題はあなたの”隠れた罪”のせいだ、それを告白しなければならない!」と言ってくるのを知っていたからです。

ですから、私たちが聖書を理解しようとする時、私たちは常にこの三つのポイントを問いかけながら読み進めなければなりません。

聖書には旧約聖書と新約聖書がありますが、この二冊の間には大きな違いがあります。

第二コリント3:11-18で、パウロは私たちに、旧約聖書を読むときに私たちの心には覆い(目隠し)がかけられていると言っています。この覆い(目隠し)はイエスによって、それは取り除かれるとあります。
イエスが旧約聖書の(新約聖書においても)答えのすべてなのです。

イエスを理解すれば、聖書に書かれてあるすべてが見えて来ます。

例えば、アブラハム、サラと彼女のメイドのハガルの物語をただ読んだだけなら、あなたはそれが神を必要とした問題ある家族の物語、としか思わないかも知れません。
しかしもしあなたがイエスを知っている人であるなら、異なった見方をするはずです。
パウロはサラが恵み(イエス)”の雛形であった事、そして彼女のメイドのハガルは、律法や自分の努力”の雛形であったと、私たちに告げています。
旧約聖書の至る所に、イエスご自身がその雛形として描かれているのです。


第1コリント10:1-4 では、イエスはモーセと彼のイスラエルの子孫達が飲んだ霊的な岩であったと、言っています。旧約の聖書の中で、私たちはイエスの姿を数多く見いだす事が出来るのです。
6節では、これらの出来事(旧約聖書の中の出来事)は前例として書かれている、とあります。
あなたが旧約聖書を読む時には、いつもイエスを探すようにして下さい。

ヘブル10章では、旧約聖書は『これから来るべきものの陰』という表現がなされています。
しかし実体はイエスご自身です。



旧約聖書には、三つの大事な点が書かれてあります。

1、ヘブル人の歴史(及び創造の歴史)

2.
旧約は「失敗」を書き記した本でもあります。そう、人間の過ちの集大成の本です。
またそれは、戒め/律法の書でもあります。しかしもしあなたが旧約聖書全体を読み通したなら、あなたはそこに登場する人物の誰一人として、その戒めを守ることが出来た人はいなかったという事を知るでしょう。
これは人間の失敗の歴史書とも言えます。
(聖書はイエスだけが律法を全う出来たただ一人の人でした。それ以外の誰もが躓いたのです。)
これは私たちが自分の力では、決して律法を全う出来ない事を示してくれています。
そして同時に、私たちにとってイエスがどれほど必要な存在かも示してくれているのです。
これは、神の恵みの美しい象徴です。
神は人間が神の戒めに背き、躓いてもなお、愛し続けて下さったのです。


3.
旧約聖書を読む上でも最も重要なことは、イエスに 焦点を当てることです。
上記のヘブル10章について触れた時に言いましたように、旧約聖書はイエスへと導くための陰です。
これは、イエスの十字架を指し示すための明確な書物です。
イエスの十字架は、聖書全体の焦点と言えるでしょう。十字架前のすべての出来事は、十字架だけに向かっています。(新約聖書における福音書もまたそうです。)
そして十字架以降もまた、イエスが十字架上で成し遂げたことを振り返り、指し示しています。
聖書のすべてがイエスとイエスの十字架について書かれているのです。

イエスが死から蘇られた後、彼は道ばたで二人の弟子の前に現れました。
(ルカ24:27)では、イエスはモーセとすべての預言者から始めて、聖書全体に渡り、ご自分について書かれている事を説明されました。44節では、イエスは彼の弟子にこのことを繰り返し言っています。
そして45節では、彼らの霊の目を開き、旧約聖書に描かれていたイエスの姿を見れるようにされたのです。
これによって彼らは、イエスの十字架の死がどのようにして旧約聖書を全うしたかを理解したのでした。
主は私たちの目を開いて下さいます。

旧約聖書を読む時、イエスをあなたのフィルター(こし器)にして下さい。
先ほども言ったように、旧約聖書には失敗の連続が書かれています。
そして、それは私たちに新しい契約(より良い契約)への飢え乾きを与えてくれます。

私たち古い契約と新しい契約の違いを、明確に語れるように学ばなければなりません。
私たちは、両方の契約の中に、同時に生きることは出来ないのです。私たちはどちらかに属する者です。

少し例を出しましょう。

多くの人がヤベツの祈りを祈るのが好きです。(歴代誌上4:9-10)
しかしこの祈りは、旧い契約の中にある祈りです。ヤベツは神にイエスによって(覚えていますか?旧約聖書は、やがて来るものの陰に過ぎません)、多くの物を満たして下さるように願い求めます。

旧約時代(イエスが来る前)の人々にとっては、この祈りはとても良いものだったでしょう。
しかし今日の私たちにとっては、この祈りは神を侮辱することになります。
なぜそれが侮辱することになるのでしょうか?なぜなら新約聖書/新しい契約は、『父なる神はイエスを通して、すべての霊的な祝福を私達にもう与えて下さっている!』と言っているからです。(エペソ1:3)

その違いが解りますか?私達はすでに、ただイエスと共にいるだけで、すでにすべての祝福を受けているのです。
私達は、そのすでに与えられている祝福をこの目で見る事が出来るように、祈るべきなのです。

多くのクリスチャン達が、ヤベツの祈りをすることによって霊的なものを見ようとしています。
多くの人たちが、この祈りについての本さえ出版しています。
しかしそれは、新しい契約に関わる祈りではありません。
霊的祝福そのものであるイエスご自身によって、この祈りはもう満たされているのです。
すでに与えられているものを求めて、なぜ神に祈る必要があるのでしょうか?
それは、十字架で死なれたイエスを侮辱する行為です。

ヤベツの祈りを祈る事により、あなたは自分が祝福を受けていないと告白しているようなものです。
自分で自分の身を古い契約に置いて、新しい契約から除外させているのです。
(それではサタンの思うツボです。なぜなら誰もイエスが旧い契約を全うした事を期待しなくなるからです。 )

イエスを通して与えられた全ての祝福を感謝することにより、あなたは自分が新しい契約の中に置かれている事の価値を、再確認するはずです。

もう一つの例として、多くのクリスチャンが、預言者エリヤのようになろう、そして彼が受けた”二倍の祝福”を得ようとしている姿が挙げられます。恐らくエリヤは、古い契約が必要だったのでしょう。
しかし今日の私達には、二倍の祝福など必要はありません。なぜなら、私達にはイエスがいるからです。
イエスという、ただ一人(唯一)の祝福で完全なのです。
さらに願い求めることは、私達が神にイエスの十字架上での働きは充分ではない、と言っているのと同じです。

如何でしょうか。私達は古い契約と、新しい契約の違いを学ばなければなりません。
十字架はその二つの違いをはっきりと区分けさせています。

聖書の中でのその線引きは、十字架です。血が流された瞬間、新しい契約は始まったのです。

福音書の中でさえ、旧い契約に関するものがあります。
マタイ15:24でイエスは異邦人の為ではなく、イスラエル(古い契約)のために来た、と言っています。
後にイエスは弟子達に、異邦人の元に行かないようにとさえ、教えています。
これは十字架の前の出来事でした。イエスが十字架で死なれた後は、イエスは彼の弟子達にすべての国家に出て行くように告げています。十字架の前と後では、こんなにも違うのです。

新約聖書の書簡全体もまた、イエスが十字架の上で成し遂げたことを指しています。

パウロの手紙のほぼ全ての中で、彼がその始めと終わりに「神の恵みを通して」と書き記しています。
なぜなら、私達が新しい契約の中に入って行ける唯一の方法は、神の恵みを通してのみだからです。
もし私達が自分の努力でそこ(神の恵み)に向かおうとしても、私達はただ古い契約に身を置くだけになります。(失敗の場所です。)

聖書の読み方をまとめてみましょう。

1.
イエスと十字架は、聖書全体が指し示しているものである。
旧約聖書は十字架を見通し、新約聖書はイエスが十字架で成し遂げられた事に焦点を当てている。
十字架なしに、私達が救われることはない。


2.
聖書を読む時、新しい契約の観点で読む事を確認する。
(十字架と神の恵みを理解するなら、聖書全体を理解することに役立ちます。)



3.
旧約聖書を読むときは、イエスを探す。

4. 尋ねて下さい。
a) 誰が語っていますか?
b) 誰に対して語られている言葉ですか?
c) 主題(文脈)はどのようなものですか?

5.
聖霊の導きに委ねて下さい。神が聖書の著者であり、彼は私達にご自分の言葉を理解してもらいたいと思っています。忘れないで下さい。神の言葉は常にシンプルです。
人間が勝手に難しい解釈を付け加えているのです。


このレッスンが、聖書を読む時に御言葉の理解を深める助けとなるように、また何より読まれた方が神のもとに近づけてくれるようにと祈っています。

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聖霊を受けるとは(1)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月24日(日)01時07分47秒
  * 初めてクリスチャンになったとき~聖霊を受けて内に留まります。=ステップ(1)「満たし』

* (しかし一度のみの経験=聖霊のバプテスマは1回のみ)、けれどこの時点ではまだ十分な満たしを受けた事
   にはなりません。

   では、2度目に聖霊を受けるのはいつでしょう?

「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が話させて下さる通りの他国の言葉で話した」<使途業出2;4>=ステップ

(2)「力の注ぎ」

* ヨハネ福音書の方では聖霊を受けましたが、この使途業伝においては、聖霊に満たされたのです。

* 聖霊に満たされ続けるには? ステップ(3)=「満たしの継続」

「彼らは使途達を真ん中に立たせて『あなた方は何の権威によって、また誰の名によってこんなことをしたのか。』そのときペテロは聖霊に満たされて言った」<使途業伝4;7>

「そのときペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。『民の指導者達、ならびに長老の方々」<使途業伝4;8>

(背景) 祭司達はペテロにイエスについて語ることをやめるように命じました。しかしイエス様(聖霊様)が自分
     について証しするようにペテロを促しました。ペテロはそのとき選択することが出来ました。人間に従う
     のか、聖霊に従うのかです。ペテロは迷うことなく聖霊に従いました。そこで7節で何が起きたのでしょ
     うか。

ペテロはイエスを語る事は許されていなかったが、聖霊に従いイエスを証しし続けました。そして8節において聖霊に満たされたのです。

* 私たちは従い続けることによって、聖霊の満たしを受け続けることが出来ます。私たちは日々、神様に従うこと
  によって日々聖霊に満たされ続けることが出来るのです。もし従わなければ、聖霊はどんどん減って行きます。

* 十人の乙女のうち賢い娘達は、従っていたから油を備え続けることができました。愚かな娘達は、ただ従ってい
  なかった。それだけの違いなのです。

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聖霊を受けるとは(2)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月24日(日)01時04分54秒
  神様は私たちに従順になって欲しいと願っています。私たちとの関係を豊かなものにしたいからです。

人の目には時には、神は傲慢な命令を出しているように思える時もあるかも知れません。
けれど、イエス様は、最初に私たちの為に十字架にかかって死んで下さり、ご自分の命を私たちに捧げて下さったのです。
イエス様は決して自分勝手な方ではありません。そのように感じられる時はあるでしょう。
また、御心をすべて理解しきることは出来ないかも知れません。
けれど、だからこそ信仰が与えられているのです。
神様は全知な方であり、すべてを益とするために大きなご計画を持っています。

ステップ(1)=「従順」~神様が語られたとき、素直に信じて行いましょう。

ステップ(2)=「信仰」~信仰なくしては神を喜ばせる事は出来ない、と聖書は言っています。

ステップ(3)=従順+信仰~神様との豊かな関係。。。奇跡や超自然体験などの体験に目を向けるべきではありま
        せん。

私達は神様との関係を、まず第一にしなければなりません。
そうすれば、それらのものは後から自然についてきます。

私たちは預言を練習する必要もありません。
私たちは癒しの祈りの訓練をする必要もありません。私たちが訓練すべきところは、イエス様との関係につきます。

神様に従えば、信仰がすべてを現して下さいます。そうすればすべてのものは、後からついてくるのです。
自分が気がつかないところででさえ起こってくるようになります。
自分自身が打ち砕かれて行けば、聖霊がどんどん流れて行きます。

このレッスンで最も重要なことは、どのようにしたら自然にイエス様との関係の中で生きて行くことが出来るか、ということです。奇跡やしるし、不思議、また祈りの答えはすべて自然と起こってきます。

私の信仰生活の中で、奇跡を起こそうと力めば力むほど、奇跡が起きた事はありませんでした。
何も考えず、ただキリストの中にとどまって、キリストとの関係をエンジョイしていたときにだけ、多くの奇蹟を体験して来たのです。

イエス様を楽しみましょう~!

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「UNION」(1)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月18日(月)02時00分52秒
  <問い> クリスチャンが到達するべき、最高レベルの目的地は何でしょうか。

キーワードは「UNION(一致)」です。

結婚も一致を現す例えの一つですね。;パウロは教会とイエス様の関係を結婚における一致の例として語りました。
この地上での最高レベルでの一致を現すものは「結婚」~妻と夫の関係です。

創世記において神はすべてを創造されました。
天、地、すべての生き物、木々、天使達さえも被造物です。けれど神様は寂しかったのです。。。
それゆえ神様は人を造られました。神様はご自身と対等な関係を持つ存在を望んだのです。
人は神によって創造されましたが、それでも完全な存在ではありませんでした。
堕落前、人はまだ何も罪を犯していませんでした。人は心から神を愛していました。
でも、人もまた寂しかったのです。

<問い> アダムは神様とともにいたのに、なぜ寂しかったのでしょうか。
<解答> 人が神に似せられて創造されたということは、神は寂しかったから人を造ったのに、人もその神の性質を
     受け継いだ故にアダムも寂しさを感じる心を受けついでしまったのです。

<問い> では、なぜ神は寂しかったのでしょう。ご自身が三位一体の神であり、愛すべき動物などがたくさんいた
     のに。。
<解答> 被造物たちは、自動的に神を愛するように造られて存在だったので寂しかったのです。

聖書は「愛は選択である」とも書かれています。
神は選択する事によって愛する、そのような存在です。
選択することによって、愛し返してもらえる、そのような存在を望んだのです。

究極に美しいイメージのアダム;アダムは神が愛するのと同じレベルの愛、崇高なレベルで愛することの出来る存在
               として創造しました。

創世記では、神がアダムの前にすべての動物が連れて来られて、それぞれに名前をつけるように命じられました。
しかし、アダムは神様が愛するのよな愛し方で動物達を愛することは出来ませんでした。
それゆえアダムは孤独になったのです。
神のイメージで造られたアダムは、神の孤独の感情をも受け継いで造られたがため、寂しさを感じてしまいました。

そしてどのようにして神がイブをアダムの為に造られたかを知ることはとても重要なことです。
どのようにして人が堕落したのかも..です。

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「UNION」(2)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月18日(月)01時57分29秒
  旧約聖書とはすべてイエスキリストを現す為の雛形であり、実態のないものです。
(例)イサクが捧げられる場面とは、イエスが生け贄になるひな形。

* 第一の絵; 創造の第3日目がイエスを象徴しています。

創世記1;1「はじめに神は天と地を造られた」~ここでは今、地は水の下にある状態です。
      そして、多くのユダヤ人の間では、1節と2節の間には莫大な時間の流れ、隔たりがあったと信じられ
      ています。

      エレミヤ書やエゼキエル書にも書かれていますが、この1節と2節の間では、ヘブル語の聖書による
      と、霊的な世界では激しい戦いが繰り広げられているということです。

      天使ルシファーが地に落とされ、神によって完全に造られた地上のすべての世界がサタンによって
      メチャクチャにされてしまったのです。
      それで2節「地は混沌となって..」という流れになっています。

そして神は再び、この地を再創造される作業に取りかかりました。
再創造の出だしとして、第1日目に光を造られました。

創世記1;9「神は言われた。天の下の水は一つところに集まれ。乾いた所が現れよ。」

古典ヘブル語の聖書によると、「地が水の中から昇り上がってきた」(サタンによって破壊された地)
その地が蘇って、だんだんその地が現れるという表現がなされています。

それはイエスキリストが死からの蘇りを象徴している絵でもあります。
これが旧約聖書の中で現されてういる、最初のイエスキリストの復活のひな形です。

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「UNION」(3)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月18日(月)01時47分26秒
  * 第2の絵;アダム

神はアダムに、知恵の木の実を食べたら、どのような結末になるかを説明していました。

<問い> 誰が最初にサタンに騙されましたか?アダム?それともイブ?
<解答> イブです。イブがその木の実を食べたとき、アダムはその場にはいませんでした。

<問い> なぜ、アダムはその実を食べたのでしょう。
     アダムは、イブにそれをタベルように勧められたとき、イブからはすでに神の栄光が消えていたことに気
     がついていた筈です。それなのに、なぜアダムはその木の実を受け取り、口にしたのでしょう。
     それを食べたら死ぬ、神の栄光を失う、~そうなったイブを見て、すべて分かっていた筈なのに。。
     神の言葉を思い出した筈なのに。。

<解答> アダムはイブを心から愛していました。だからたとえ自分が罪に堕ちても、イブのそばにいることを望ん
     だのです。それゆえ同じ行動をとったのです。

しかしながら、実際に神の大きな怒りに触れたとき、それがとんでもない過ちであることをアダムは悟りました。

<ポイント>
アダムは自分の意思で罪人になることを選んだのです。妻と一緒にいるために。。

<問い> イエスは何をしたのでしょか。
<解答> 「罪を知らない方が罪となった」~パウロは「イエスは罪となることを選んだ」と言っています。

アダムは妻を愛するがゆえに罪人となりましたが、イエスも人類のために自ら罪となることを選んだのです。

* 人には妻が必要でした..孤独だったからです。
  けれど妻を得た後でさえ、寂しさを感じる心は消えませんでした。
  なぜなら、神との深い関係(UNION)がなければ、その孤独は決して消えないものだからです。

* 神は人との深い関係(UNION)を望んでおられます。しかし、人間には神との関係を持つかどうか、自由意志が
  与えられているのです。

☆ 私たち人間の目指すべき最高レベルのゴールとは、神との完全なる関係(Perfect Union)を持つ事です。

<問い> では、どうしたら神との完全なる深い関係を持つ事が出来るのでしょうか。
<解答> 「自分自身に死ぬ事」です。

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「UNION」(4)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月18日(月)01時44分36秒
  * 神は完全な方です。そして神は秩序の神であり、すべてを法則で治めています。

* 神は真理であり、真実な方。神は義なる神であり、また聖なる方です。
  人間が堕落しでも、神は人を心から愛していました。だからといって、神の義のゆえに、その罪を無いものにす
  ることは出来ませんでした。
  それゆえ、イエスキリストという形をとって、この地上に降りて来られたのです。
  第2のアダムとなるために。。

<問い> 旧約時代の人間(イエスによるあがないを得ていない人々)は、改との深い関係を持つ事は不可能だった
     のでしょうか。
<解答> 交わりはありました。神の恵みによって。。(以下はその方法です)

* 人間は罪に留まっていました。最初の人は義の衣を来ていましたが、木の実を食べたことにより、それを失って
  しまいました。
  そしてただの皮膚をもった人間でしかならなくなってしまいました。罪は泥のようなもの。罪を持って神に近づ
  く事は出来ません。

* 泥だらけの姿で、大宮や宮殿に入る事は出来ません。正装しなくてはならないことと同じです。
  私たちのうちにある、
    SIN~「内住の罪」が義の衣を消失させました。現在は裸になってしまった状態です。
      SINS~「行動による罪」これは私たちの肌についた泥のようなものです。

* 旧約時代の人間に対し、神はまだSIN「内住の罪」に対するお取り扱いは行っていませんでしたが(イエスのみ
      が取り扱うものであったからです)
  しかしながら、旧約時代の人々は、生け贄の子羊を捧げ罪を子羊に転嫁することによってSINSを取り除いてい
  ました。

* 罪人である旧約の人間は、生け贄の子羊に手を置きます。~すると罪は自動的に子羊に転嫁されるのです。
  =旧約時代において、手を置くというのは、『UNIONー繋がる』ーことを意味しました。

そして大祭司は、罪を負った子羊をほふります。子羊が殺されると同時に、人の罪が抹消されることを意味しました。
そして大際は、この生け贄の子羊の血を至聖所に持って行きました。

また、同時に捧げられた子羊の皮は、神の目にはその捧げた罪人の上に着せられたものとなり、
SINS「行動の罪」は落ちて、その衣の故にないものとみなされました。
しかし、この儀式が救う事ができるのは、あくまでも複数形の罪、SINS「行動の罪」だけだったのです。

<問い> クリスチャンはどのようにして救われたのでしょうか。恵みを通して?義を通して?どちらを通してで
     しょうか?
<解答>新約においては、イエスがそのあがないの子羊です。聖書はSINもSINSもすべて取り除かれた、それゆえ人
    は義となることが出来た、と言っています。
    神は神の義を通して、私たちを救ったのです。

<重要>
   神が見ておられるのはイエスキリストの義だけです。そしてイエスキリストが義を与えるのではありません。
   イエスキリストご自身が義そのものであり、私たちにキリストご自身を与える事によって、そして私たちが義
   とされたのです。
   神は義そのものであるイエスを受け入れない限りは、義を与えることはできません。

イエスキリストは33年間この地上で行きて、試みを受け続け、常に勝利してきました。
キリストの義は、いつも試練を通して試らされ、そして成長して行ったのでした。そしてイエスが甦り、天に昇り、聖霊を私たちに贈る事が出来たのです。
しかし聖書は決して神は私たちに義を与えたとは言っていません。

私たちが試みにあうとき、私たちが試みに会うのではなく、私たちを通してイエスご自身が、ご自分の義によって反応されるのです。

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「UNION」(5)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月18日(月)01時39分26秒
  * 私たちが罪を犯しても、私たちがイエス様の義の中にいる限りは、聖霊さまは私たちから離れることはあ
       りません。

大きな罪をわざと犯しても、それを心から悔い改めるのなら聖霊さまは離れては行きません。

* 自分の義によって(たとえば、祈りを積み、聖書をたくさん学び、賛美を捧げまくる)では、義とされないので
  す。
  たとえクリスチャンの努めを怠ったとしても、イエスの義はクリスチャンの中にあります。
  神の義は私たちを大胆に御座に立たせるものなのです。

* 時には自分が義なる存在、聖なる存在に思えないときもあるかも知れません。しかし、それらはただの感覚・感
  情に過ぎません。
  真理は変わりません。

  真理とは『イエスの義が私たちの中にあり、私たちがイエスの血で覆われている』ということです。
  これが変わらぬ真理です。自分を見てはいけません。自分の中にあるイエス様の義を見るのです。

* 時に私たちは真理を忘れてしまう事があります。でも神の側は決して忘れません。
  私たちは、神の義によって救われたのです。神は私たちの義を見ているのではありません、神が見ておられるの
  はイエスの血だけ、イエスの犠だけです。

* 自分の力では、神との正しい関係を持つ事は出来ません。
  しかしイエスが、それを出来るようにして下さいました。
  だからイエス様ご自身をもっともっと求めなければならないのです。

* それは唯一自分が自分自身に死ぬことによってのみ、イエスが私たちの中から現れるようになります。
  自分自身に死ぬとは、まさしく自分の中にある古いアダム(残骸)を殺す事です。

* 英語で義を「righteousness」(ライチェスネス)といいますが、この言葉は古典英語で「 right」(正しい)
 「 teousness」(関係)から出来た言葉です。

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「UNION」(最終回)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月18日(月)01時31分35秒
  ヨハネ3;30「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」

バプテスマのヨハネにはたくさんのお弟子さん達がいました。
「しかしイエスがご自分のミニストリーを開始されたとき、彼らの多くがバプテスマのヨハネを離れて、イエスのもとにいきました。」・・・と、一般的には理解されていますが、実際にはバプテスマのヨハネはミニストリーのことを述べたのではありません。
バプテスマのヨハネは、自分自身の存在について語ったのでした。

ヨハネ3;31「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属するものとして語る。天から来られた方はmすべてのもののうえにおられる」

バプテスマのヨハネは「私は低き者、私は地からの者。
しかしイエス様は天から来られて私のうえにおられる方。
30節において語られているのは、私たちはみな低くされなければならないということです。そのときに、イエス様は高くあげられるのです。

もし自分が霊的でなくなっていると感じても、自分の中にイエス様の義があることを覚えておかなければなりません。
その義ゆえに神に近づくことが出来るのです。信仰によってイエス様の義を信じることは非常に大切なことです。

<問い> この地上に置いて、どのような人々の罪が洗い流されているのでしょうか。
<解答> クリスチャン..しかし神はクリスチャンになった人たちの罪だけを背負ったのではありません。
     イエス様を拒絶する人々を含め、全人類の為に死んだのです。

<問い> なぜ、ある人々は救われ、ある人々は救われないのでしょう。
<解答> 個人個人の自由意志による選択です。

イエスにより、全人類の罪が十字架の上で清算されています。しかし、ある人々は、自分の罪のうちにとどまることを選ぶのです。
しかし、ある者は神を見上げて、神様を崇めることを選びます。その人は、そのときに同時に自分も十字架につけられた者となるのです。

救いはすべての人々の為にありますが、私たちは選択しなければなりません。
祝福もまた同じ事です。
クリスチャンにはすべての祝福が約束されています。すべての祝福がもう実は与えられているのです。
クリスチャンはそれを自分で自由意志により選択してとらなければなりません。

<問い> では、その祝福をどうやって取るのでしょうか?
<解答> (1)信仰によって
     (2)祈りによって

*スーパーハードに祈らなくても、ただシンプルに祈ればよいのです。
 私たちクリスチャンは、すべてのものをもうすでに受け取ったものとして、感謝して、祈らなければなりません。
 あなたが望むものはすべて、もう神は知っておられます。祈る前から知っています。直ちに祈りが聞かれなくて
 も、神のときに完全なものが与えられます。

祈りだけではなく、すべての事において神と交わっている心を常に持っている事は大切なことです。

箴言16;3「あなたの業を主に委ねれば、計らうことは固くたつ」

仕事をしていても、お料理をしていても、何をしていても心が神と共にいましょう。
自分の毎日の日々そのものを主に捧げましょう。生きる事のすべての領域において、主と交わりましょう。
そうすれば、後のものごとはすべて自然に成り立って行くのです。

* 人間は神のイメージで創造されました。神はすべてを創造されました。。ということは、私たちにも創造する力
  が与えられているということです。
  私たちクリスチャンの語る言葉には力があるのです。私たちには人を祝福する力があるのです。

  また罪の為、同時に呪う力もあります。ですから私たちの語る言葉には気をつけなければなりません。
  ネガティブな言葉を語れば本当にその通りになってしまうのです。

しかし罪を告白し、私たちの罪を神が赦して下さって、神が私たちを通して働いて下さると確信して言葉を語るとき、すべてが実現します。

私たちのうちには、信じきる事ができない心がありますが、それすらも神様に委ねて「助けて下さい。信じる心を与えて下さい。不信仰な領域を助けて下さい」と祈りましょう。

私たちの語る否定的な言葉は、すべて神によって裁かれます。だから私たちは『いのち』を語らなければならないのです。

誰が『いのち』でしょう。。そう、『キリスト・イエス』なる方です。

イエスキリストが私たちのいのちであり、イエスキリストが私たちの義であり、イエスキリストが癒し主。。。
イエスが私たちにとってのすべてです。だから私たちはさらにイエスご自身を求めなくてはならないのです。

* 感情に頼っては行けません。ただ信仰によって祈る。。これが鍵です。。

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「霊的戦い」(1)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月17日(日)17時23分33秒
  まず霊的な世界の構造を理解したいと思います。

第1の天..この私たちの住む世界
第2の天..空中の悪霊がすむ世界
第3の天..聖書に記されている神の支配する世界(黙示録の世界)

* 霊的な賜物を頂いても、またいなくても、私たちが祈るときにはこの三つの天の世界を通らなければならないの
  です。

* ダニエルが祈ったとき、祈りの答えがもらえるまでに21日間待たなければなりませんでした。ダニエルの前に
  大天使ガブリエルが現れ、「あなたが祈った瞬間にわたしは天の御国を離れた。しかし途中でペルシャの王子
 (サタン)に止められ、戦わなければならなかった。」といいました。

  私たちが祈ってもすぐに答えをもらえないときがあります。
  私たちの祈りは、祈ったその瞬間に神のもとに届いてはいますが、そのとき、同時に「霊的戦い」が起こること
  を理解しなければならないのです。

天使は祝福を届けるために来てくれますが、サタンが常に邪魔をしようとしていることを覚えておかなければなりません。

* サタンは時には天使として変装して来る事もあります。そして神の声として、語りかけてきます。また美しい映
  像を見せて、神からのものであるかのように見せる事もあります。
  サタンは真理から人を遠ざける為に、事故の魂の領域で起きている事を、聞かせたり見せたりしようとします。

  真理は人を自由にしますが、サタンから来るものは縛りを残します。


 霊的な世界では、たくさんの霊的な戦いが起こっている事を、まず理解しておく必要があります。

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「霊的戦い」(2)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月17日(日)17時19分57秒
  聖書は、私たちの住むこの世界は本当の世界ではない、と言っています。
パウロも本当の世界は霊的な世界であり、この地上世界は霊的世界の影でしかないと言っています。
霊的な世界でサタンは、福音の種、また福音の光を、多くの罠やトリックを遣って奪おうとしています。
ただの人間には、霊的な世界に対しては何の力もありません。
しかしクリスチャンにはあるのです。
ただ、それを実感できていないクリスチャンが多いのも現実です。

ダニエルが祈ったとき、大天使ガブリエルがペルシャの王子と空中で戦いましたが、ガブリエルに勝利をもたらしたのは、地上にいたダニエルの祈りでした。

第1ヨハネ「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽予言者が大勢世に出て来ているからです」
(ヨハネは教会に対してもこの言葉を語りました)

私たちがまずするべき事は、どのような人間の体験する超自然的な体験も、それが神から来ているものかどうかを確かめることです。

では、どのようにそれを確認できるのでしょうか。
神様に直接聞いて下さい。神様から来ているものかどうか、直接です。そしてその霊が主に栄光を返すものであるか、みことばの土台にたっているものかを見て下さい。

私たちクリスチャンは霊的な世界において力を持っているのです。それを正しく行使しなくてはいけないのです。

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「霊的戦い」(3)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月17日(日)17時17分58秒
  ~映画「マトリックス」を引用して~

映画の中で主人公が考えていなくても、語っただけで物事がその通りになる場面がありました。
彼は戦う必要がなく、ただ語っただけでした。

イエス様は「もしあなたが山に向かって動けと命じるなら、山は動く」と仰られました。
マトリックスの中でも、主人公が「止まれ!」と命じた瞬間、発砲された銃の弾が目の前で止まってしまったシーンがありました。
止める必要はありませんでした。ただ、止まれ、と命じただけです。

* サタンはクリスチャンを攻撃してきますが、私たちは神に向かってた助けを求めたり攻撃がなくなるように祈る
    のではなく、サタンに向かって直接、命じなくてはなりません。

ユダの手紙9章「大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、『主がお前をこらしめてくださるように』と言った」

モーセは生前、神から多くの油注ぎを受けていたので、彼の魂には力があり、その力は遺体となった後にもモーセの体の中に残っていました。
なのでサタンはその力を得る為に、モーセの体を欲しがったのです。その為、ここで大天使ミカエルと言い争い、また体の奪い合いをしました。
しかし、ここで大天使ミカエルは相手をののしって戦おうとしたり、神様に訴える祈りをしてはいません。ただ一言イエスの御名において「やめろ!」と命じたのです。
そしてサタンは従わざるを得ませんでした。
大天使ミカエルは第一天使(サタンは堕落するまえは、ルシファーという名で第一天使でした)

大切なことは私たちクリスチャンもこの大天使ミカエルと同じことが出来るのだということです。
イエス様の御名によって止まれと言えば、いつも必ずそうなるのですが、大事なことは、私たちのこの世界には
『時間」というものがあります。だから時には、この時間と言う空間に生きているので、祈りの結果が出るまでに待たなくてはならない事があります。
けれど、その時間も神様のご計画のうちである事も忘れては行けません。

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バイブルレッスン『結婚』(1)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月17日(日)17時14分22秒
  <問題>人生で一番大切なものは何でしょうか?

<答え> イエス様は天の御国は今ここにあると言っています。

私たちの体はまだあがなわれていませんが、私たちの霊もまだ天国に行ってはいませんが、イエス様を知っていますからこの地上においてクリスチャンは天国を体験する事ができるのです。
これが、私たちの人生で最も重要な奥義です。
私たちが今、自分たちの人生で、生きながら天国を体験することです。

*天国について

もし、あなたがイエス様を知っているのなら、天国に行く事が出来ます。それは永遠の命です。

「その永遠の命とは、かららが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエスキリストを知ることです」(ヨハネ17;3)

(1)永遠の命とは何でしょう=天の父とイエスを知ること

(2)では、神様には天国で初めてお会いするのか?

「わたしはもはや、あなた方を僕とは呼びません。僕は主人のすることを知らないからです。私はあなた方を友と呼びました。なぜなら、父から聞いたことをみな、あなた方に知らせたからです。...永遠の命が与えられます」(ヨハネ15;15)

* また天国とは結婚式の披露宴のようなものです~キリストとの結婚です。

* 男女が知り合い、恋に落ちるとデートを始め、そして段々と互いのことを知るようになります。今、私たちの人
      生というのは、このイエス様とのデートをしている時期です。そして同時に私たちはイエス様との婚約期間にあ
  るのです。

* 結婚するには結婚指輪(シンプルなリング)を互いに贈りあいますが、その前の婚約のとき、男性は婚約指輪を
  贈ることがあります。(たとえばダイヤモンドがついたものなど。)
  そして男性はその指輪を贈るとき、西洋では男性は床にひざまずいて結婚を贈る風習があります。これはイエス
  様が私たちにして下さっていることです。この男性のひざまずく位置というのは、僕の位置です。
  男性はイエスキリストを現しています。
  イエスキリストは主なる方ですが、同時に仕える方でもありますから、このようにひざまずいて下さっているの
  です。そしてご自身との結婚を申し込んで下さっています。
  主イエスキリストは十字架の上で、人間にひざまずいて「わたしについてきてくれますか?』と言って結婚を申
  し込んで下さっているのです。この地上の人たちは、誰でもイエス・ノーをいう選択権があります。応答した者
  には、婚約指輪が与えられます。私たちはこの地上において、イエス様の婚約者なのです。

* この地上で頂く婚約指輪には大きな宝石がついていて、これは「大きな祝福」を意味します。神様は私たちに祝
  福を備えて下さっているのです。

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バイブルレッスン『結婚』(2)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月17日(日)17時06分41秒
  * イエス様と私たちは婚約をしたけれど、まだ結婚した訳ではありません。~ですから、結婚に対して計画を立て
  て行かなくては行けません。そしてお互いにもっと良く知り合わなくてはならないのです。
  私たちはイエス様を知らなくてはなりません。彼の言葉を読まなくてはなりません。私たちはイエス様とともに
  天国に対しての計画を持たなくてはならないのです。

* 婚約指輪についている宝石は、地上での祝福を現しています。~輪には始まりもなく終わりもありません、永遠
  を意味しています。これは永遠に対する約束なのです。そしてイエス様が永遠にともにおられることをも現しま
 す。

* 結婚指輪は心臓に最も近い、左手の薬指にするものです。~これは私たちがイエス様の心の一番近いところにい
  ることを意味しています。

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バイブルレッスン「結婚』(3)

 投稿者:はるみ  投稿日:2006年 9月17日(日)17時04分52秒
  「天の父は結婚披露宴を準備して下さっている」とイエス様は仰っています。
(ユダヤ文化では花婿と花婿の父が結婚式や結婚披露宴の準備を整えます。~花嫁の父が結婚準備をするようになったのは、ヨーロッパでビクトリア王朝時代に入ってからでした。)

イエス様の時代のユダヤ文化においては、子供が幼少の頃に両親が自分の子供たちの結婚相手を決めるのが一般的でした。(時には子供が成長してから、恋に落ちて自分たちの意思で結婚相手を見つける事もありましたが。)
しかし、どのような場合の結婚においても、一つだけ共通点がありました。~それは、どのような状況の結婚でも、必ず婚約パーティーを開き、習慣として花婿は結婚の日まで実家を離れて、自分たちの新居を建てるのに専念したのです。
家が完成して晴れて結婚式となるのです。女性は結婚式の日まで実家で花嫁修行をし、花婿が迎えにくるのを待ちました。それは一ヶ月先か、三ヶ月先か、半年先か、花嫁はいつ花婿が迎えに来るのかは分かりませんが、待ち続けるのです。
そしてある日の夕方、花嫁の兄弟たちが「花婿が来たぞ!花婿が来たぞ!」と叫び声をあげます。
花婿はその日を結婚式の日として、特別なコシュチュームを身につけて迎えにくるのです。
花嫁は花婿の姿をみて、今日が結婚式であることを悟ります。彼らは結婚式をあげ、盛大な披露宴を開きます。
花婿の父は、息子と一緒に準備してきているので前から式の日取りは予想できていました。
ユダヤ文化では、男性は結婚直後の一年間は、仕事につくことも戦争に行く事も国から免除されました。そのような法律があったのです。
それは結婚後一年間は、夫婦は互いに近くにいなければならないと国が定めていたからです。

* これは私たちとイエス様の関係を連想させてくれるものです。
  私たちはイエス様と婚約したものであり、祈りやみことばを読む事によってイエス様のもとを訪れることが出来
  ます。イエス様はヨハネ福音書を通して「あなたの為に家を備えよう」と仰って下さっています。

「わたしの父の家には住まいがたくさんあります。もし、なかったらあなた方に言っておいたでしょう。あなた方の為にわたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなた方に場所を備えたら、また来て、あんたが他をわたしのもとに迎えます。わたしのいる所にあなた方もおらせる為です。わたしの行く道は、あなた方も知っています。」(ヨハネ14;2、3、4)

* わたし達は十字架を通してイエス様と婚約しました。また私たちの側も私たちがイエス様を救い主として心にお
  迎えしたときに婚約が成立しました。イエス様は父の王国にはたくさんの家があって、それをあなたの為に備え
  る為に行くと仰っています。これはユダヤ人の花婿が自分たちの新居の為に婚約期間中に家を備えるのと同じ
  で、イエス様もまた今、私たちの為に家を準備して下さっているのです。

* ユダヤ人の花婿は正装をして花嫁を迎えに来ますが、イエス様もそのようにして私たちを迎えに来て下さるので
  す。

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