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「ジャパン・プロブレム」の本質を定義しよう

 投稿者:ウエダ  投稿日:2014年11月26日(水)19時50分4秒
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  こんばんは、皆さん、植田です。

 「ジャパン・プロブレム」の本質について、書いてみたいと思います。

 最初に「ジャパン・プロブレム」なる用語で日本社会を特徴づけることができる特別な事態が日本にはある、ということを言い出したのは、カルル・ウォルフレンでした。

 初出は、1980年代末の月刊雑誌の論文でした。確か、大蔵省の権力について論じたものでした。
 そのあと、『日本・権力構造の謎』という単行本が出ました。若き日の私が師と仰いだ人物が、この当時、「ウォルフレンのこの本は、日本を変える」と予想した本でした。

 そのあと、1994年に『人間を幸福にしない日本というシステム』が出ました。
 私にとっては、この本は、ウォルフレン本の中の、真打と感じられました。
 その時に感じたこの「真打」の印象は、今も変わっていません。
 ジャパン・プロブレム、すなわち日本問題の本質は、この本の中に述べられています。

 たとえば、こうです。

 「公式には民主主義国である日本が、なぜ、これほど大がかりに官僚に支配され続けているのか? これは、日本の市民がつねにみずからに問うべき最大の問題である。なぜなら、官僚たちは市民による選挙で選ばれた人たちでも、市民の正当な代表者によって任命された人たちでもない。」『日本というシステム』p.30

 そう、近代主権国家の国・オランダから日本に来た彼には、主権者(国民・有権者)によって選ばれたのでもないのに、官僚が日本の政治を動かしていることを知って、日本が「ナゾ」になりました。

 そして、問題の本質は、その官僚が、自分たちの政治的行為の結果に、まったく責任を取らないことです。

 「このことこそ日本という国家の最重要問題だと私は思っている。なぜなら、それが日本の大問題の究極の原因だからだ。私はこれを根本的欠陥だと見ている。これを私は、《政治的説明責任の中枢の不在》と呼んでいる。日本を近代国家と見なすことは出来ないとすら私が論じるのも、この欠陥があるためだ。」p.79

 どうでしょうか、1994年のウォルフレンの言葉ですが、2014年にもまったくそのまま通用します。
 3.11以後の、東電と、日本政府(民主党と自民党)、官僚たちの、原発事故への無責任ぶりを見よ。

 さて、私が今書きたいのは、そのように現状の日本社会の欠陥をついたウォルフレンの分析は、まだ本質に迫っていない、ということです。
 それは、まだ、日本社会が基本的に持つその性格から派生してくる結果であり、現象である、ということです。
 では、私が考える、日本問題の本当の本質は何か?

 私は、ここに一つの本を紹介したいと思います。
 この掲示板でも過去に何度かとり上げたことがありますが、あらためての言及です。
 それは、ウォルター・ラフィーバーの『The Clash』。
 1997年に英語版で出ました。ラフィーバーは、当時、コロンビア大学の歴史学の教授でした。以後、残念ながら、日本語版が出ていません。私が知る限りでは、朝日新聞の論説委員でしたか、主筆でしたか、船橋洋一が絶賛していたくらいです。私も、なにを隠そう、この人の記事を見て、『ザ・クラッシュ』の存在を知ったのでした。

 で、ラフィーバーによると、ペリーが来航した時点から1990年代の日米貿易摩擦まで、日米間には基本的な対立点がある、ということでした。
 たとえば、日米は、普通は「資本主義経済」と共通項で括られるが、その中身は、大いに異なる、と。
 では、なぜ異なるのか?

 ポイントはここです。
 これは、日米では、社会の基本単位が異なるから。
 アメリカ社会は、個人が普通に社会の一つの単位となっている。
 それに対して、日本では、集団が単位となっている、と。江戸時代の昔から、と。

 これが、何かにつけ、日米間で、問題をクラッシュ(衝突)に導く、と。

 以上、私が言いたいことは、「ジャパン・プロブレム」の本質とは、日本人の個人意識の未発達、ということです。
 そして、このように定義すると、この問題は、そのまま、なぜ日本人の思想史には、ペリーが来航するまで、すなわち西洋文明と接触するまで、「フィロソフィー/哲学」がなかったのか、ということになります。
 
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