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加藤和彦の「私はポール・マッカートニーである」問題

 投稿者:ウエダ  投稿日:2009年11月 2日(月)15時37分18秒
  通報 編集済
  こんにちは、皆さん、植田です。

 ささきさん、書き込みをありがとうございます。
 最近は、自分で書いた日本語を見ているだけで、地球にはほかに誰もいないのか、という感じでした。60億人以上もいるはずなのだが・・。ここは未知の惑星なのか。
 で、この惑星は、なかなか快適です。
 なんて気分でした。

 ささきさんは北海道の方ですか。北大に行った友人がいますが、彼が着ているオーバーを見て、そこの冬の恐ろしさを想像したことがあります。静岡県で着るオーバーでは、まったく通用しないなあ、と。
 私は北海道には行ったことがありませんが、冬の仙台を味わったことがあります。1月の仙台を1週間ほど。雪一色でした。
 雪の世界もナイスだと思います。

 地球の1年の四季の変化を毎日の生活の中で味わえるというのは、大変贅沢な生活ではないか、と思います。日本は住むにはいい場所です。

 さて、加藤和彦の問題ですが、ささきさんがいう

 >自分を主体にできない精神、自虐的精神に汚染されていましたと加藤和彦のことを評していましたが、意味がわかりません。

 お答えします。
 これは簡単です。
 プロとしてステージに上がったなら、自分を他のアーティストになぞらえてはいけない、と。
 これだけです。
 一介のファンであるなら、いくらでも「私はポール・マッカートニーです」と言ってもかまいません。が、加藤和彦というアーティストがそれを言ったらお終いです。
 自分のアーティストとしてのアイデンティティーの否定です。

 とはいえ、日本人は多くの場合、このように感じないでしょう。
 むしろ自分がヒーローと見なしている人物に、できる限り、完璧に同化するのが日本人の心理的傾向です。
 加藤和彦の場合もそういうことだったのでしょう。
 私は、異常なほどにポールのファンである、と。

 それは私もよく分かりますが、しかし、プロとしては人の前では言ってはいけないセリフ、です。
 「私はポール・マッカートニーです」と言ったら、では、加藤和彦を見にきた・聞きに来たお客さんはどうしたらいいのか。
 ポール・マッカートニーだったら、ポールの公演を見に行けばいいわけですから。

 で、そのように発想してなんとも思わない精神、あるいは思考習慣のことを私は律令理性と呼んでいます。
 それでなぜ平気なのか、といえば、主体がないからです。近代的主体、と言いましょう。単なる主体なら誰にもありますから、それと区別するために加藤和彦には「近代的」主体がなかった、と。

 では、それは何か。
 となりますが、ささきさん、以上で充分でしょうか。
 これから先は、ヘーゲル哲学の世界に入りますが、必要でしょうか?

 フォークルのメンバーでは、私も北山修が一番好きでした。
 次に、はしだのりひこ。
 加藤和彦は、いまいち、ピンときませんでした。
 少し彼の歌を聞いてみる必要があります。そしたらまた感想を書いてみます。

 こんなところで。
 
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