|
|
こんばんは、皆さん、植田です。
副島・英文法からの話題です。
英語の語順がいかにして現在のようになったか。
現在のように、というのは、S(主語)+V(動詞)+O(目的語)、です。
ここを示唆している印象を受ける一節がありました。
「pleaseの2通りの使い方
このpleaseという語(wordワード、いわゆる〈単語〉のことを、言語学では正しくは〈語〉という)は、もともとは、〈喜ばせる〉という他動詞の動詞である。したがって、基本は、〈ある事柄が人間を喜ばせる〉という使い方から始まる。
This book(あるいはThis news あるいはThis baseball game)pleased me.(ディス・ブック・プリーズド・ミー)
で、〈この本は、(このニューズは、この野球の試合は、)私を喜ばせた〉が、そもそもの使い方である。
やがて、このmeという〈人間目的語〉が文章の頭に出て、倒置(inversion,インヴァージョン)して、Iが主語になり、〈人間主語の文〉となって、
=I was pleased with this book.
got this news.
this baseball game.
となった。こっちの〈私はこの本を読んで楽しかった。おもしろかった〉の〈私は〉を主語とする文の使い方のほうが、もとのThis book pleased me.よりもふつうだとされる。」『英文法の謎を解く』p.51
以上です。
問題は、「やがて」というところです。
この「やがて」の中に、何があったのか。
西洋人の精神に何があったので、その転倒が起きたのか。
興味深いことに、この転倒はデカルトの精神革命とパラレルです。
これはハイデッガーが詳しく説明していますが(たとえば、『ニーチェ2』平凡社から出ています)、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言いだすまでは、主体となるのは、デカルト以後の客体でした。すなわち、デカルト以前の人々の意識にとって、自分の目の前にあるもの、自然界なり、それらの個別の事物なりが、主体として意識されました。
まさに、副島氏が例文で挙げたように、this bookが主体でした。
これをデカルトが転倒させました。
考える我が、以後、主体になる、と。
で、考える我(私)が主体となると、当然、それまで主体と見なされていた自然界なり、個別の事物は客体になります。
と、こんな具合に、主語と客体語の転倒の問題を説明しようとすればできるわけですが、しかし、デカルトよりも前のチョーサーの英文では、すでにその転倒が起きていたのではなかったのか、と思います。
昔読んだことがあるのですが、ちょっと今は忘れました。
ちなみにデカルトはフランス人であり、ラテン語とフランス語で哲学の本を書きました。英文とは直接関係ありませんが、西洋人の意識構造がその文法に反映される、という意味で、以上のように推測してみました。
|
|