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「バベルの塔」神話と文法論

 投稿者:ウエダ  投稿日:2009年11月 7日(土)11時57分15秒
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  こんにちは、皆さん、植田です。

 英文法を論じた本の中で、私には、副島隆彦氏の『英文法の謎を解く』シリーズが最も面白く、刺激的です。
 読むたびに、刺激を与えてくれます。良い本とは、読者をして、自分でその問題について考えるように刺激する本です。

 そこで、文法とは何か。
 副島氏が述べています、

 「文法学とは、ある国民言語(language)の使用(統辞)の法則性を明瞭に抽象し、それを法則の体系に置き換えることによって、その国語の使用(統辞)の規範(正しい使い方)を定めるものである。そして、その法則の体系は、外国人(その言語が外国語である人々)にとっても、合理的に自然に理解できる理論、すなわち、世界共通の地盤を持つ、学問(science)でなければならないのである。
 その国独自で発達した独特の表現法というものがたくさんあるのは仕方がないとしても、その国独自の文法学というものはあってはならない。その国の人間にしか理解できないような国語理論は疑われなければならない。外側に開かれていないものは理論でも学問でもない。
 だから、私は、18世紀まで、ヨーロッパ共通の知識人言語であったラテン文法学まで英文法(各ヨーロッパ語文法)を戻して、それと、日本語の統一的観察をすべきだとずっと考えてきた。」『英文法の謎を解く』p.158

 まったくその通り。
 こういうところを目にすると、私は、副島氏の精神には、戦後世代の新しい息吹が健康的な流れているなあ、とつくづく感じました。この本は1995年にでたものです。もう14年も前になりました。

 つまり、丸山真男が指摘した、日本人の思考を根源的に規定する「内」と「外」の区別を、最初から抜け出しています。
 日本語も英語もラテン語も同じ土俵の中で考察する、という精神です。

 この問題は、神話的に考えれば、旧約聖書の「パベルの塔」の物語まで行きます。
 その昔、地球上では、全人類は同じ言葉を話していた、と。
 しかし、人類は、同じ言葉をもって協力したことから、自尊の気持ちが高ぶり神の領域に達しようとしたので、神は、人類の言葉をバラバラにして、互いに力を合わせることができなくしてしまいました。

 だから、現代の国際社会の秩序形成原理である「パワー・ポリティクス」は、このパベルの塔の物語の結果であるとも言えます。言語が異なるゆえに、互いに意志が疎通できなくなり、各国民・各民族は、互いに不信を覚えるしかなくなっている、と。

 聖書的には、人類の本当の敵は、パベルの塔を作った人類の力に嫉妬した神である、ということになります。
 だから、アメリカ軍は敵の設定を間違っています。もっとも、近代軍たるアメリカ軍には、ニーチェの宣言にあるように「神は死んだ」となっています。
 もちろん、神の策謀です。この世に存在するすべてを創造した神が死ぬはずがありません。その力は、日々、瞬間瞬間に、地球に作用しています。
 冬になれば富士山に雪の冠をかぶせ、春には、野原に花を咲かせます。これらが太陽と地球の関係に依存するというのであれば、その太陽と地球を作ったのは誰か、ということになります。ビッグ・バンであれば、そのビッグ・バンを引き起こしたのは誰か。偶然だとしたら、その偶然を引き起こしたのは誰か、です。哲学的に考えれば、その「最初」を考えるのが、学問の主題です。「アルケー/原初」問題です。

 ニーチェの宣言は、浅はかな人間が考え出した神は死んだ、というだけのものです。
 その証拠に、ニーチェは、キリストだけはどこでも批判していません。『アンチ・キリスト』においても。
 話がずれました。

 なぜ普遍文法が必要なのか。
 パベルの塔は正しかったからです。
 人間精神の構造は、万人、同じです。
 それを言語を分散して、人類の間に不和の種をまいたのは、神の嫉妬です。
 いやまあ、神話的に言えばそういうことになるのですが、実際的には、人類は相違点がないと、切磋琢磨して競争することがなくなる、ということでしょう。これも人類のサガです。絶対的休息は、人類の絶対的死を意味する、と。
 だから、人類は昔も今も、部分的競争(戦争)をしながら、向上を目指しています。
 またずれました。

 副島氏の『英文法の謎』を今、あらためて拝見すると、日本人の英語教育は、長く、鎖国の中でやってきたのだなあと痛感しました。
 ネイティブたちの英語を度外視して、日本人だけで「英語とはこういうものだ」と勝手に英語ワールドを作ってしまい、そこで自分たちにしか通用しない受験英語を作ってしまった、と。

 「It's kind of you to come to see me.
来てくれてありがとう。

 この英文を、ふつうのアメリカ人・イギリス人の前で使ったら、あなたは、相手から、ポカンという顔をされるだろう。『何だ、オマエは、日本の名門貴族の出なのか。爵位でも持っているのか』
 この表現を使っていいのは。日本では、雅子妃、紀子妃レベルの人たちである。あとの人間は、使ってはならない。It's kind of you to・・は、きわめて上品で、上品すぎて、もはや、歴史上の雅語に入れられる表現である。・・
 ところが、これを少し変えただけで、It's nice of you to come.
 もっと気軽には、It's very good to see  you.やあ、お久しぶり。」p.112

こういう日本語鎖国から生じた問題は、副島氏が指摘しているように、日本人が普通の海外生活をするようになれば、自然に訂正される問題です。
 しかし、文法論は、パベルの塔の問題として、人類が複数の言語を使っている限り、妥当し続ける問題です。
 
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