|
|
こんにちは、皆さん、植田です。
そんな具合に、モダン、ポストモダンの問題を自分なりに考えてから、ジャン・フランソワ・リオタールです。
この人が論じた「ポスト・モダン」論とは何か?
フランス人であるこの人は、なぜバカンスよりも哲学を選択したのか?
いや、打ち寄せる波の見えるマルセイユの海岸に寝そべって哲学をしたのかどうか、私は知りませんが、 ワインを飲みながら、優雅に「アウシュビッツとは何だったのか」、などと考えるのも、おつなものでしょう。
『ポストモダンの条件』や『ポストモダン通信』などを読んでの私の感想は、言葉が美しくありませんが、ヘーゲル哲学が残した地平の尻拭いをしているなあ、というものです。
新しい時代を開拓したのではなく、その前に留まって、ヘーゲル哲学の後に来るものを待っている、と。
だから、それが見つかるまでは、哲学をやるまでもなく、バカンスがいいだろう、と言っているのに、と。デカルトの哲学パラダイムに依存しながら、まだ、何か、考えることがあるのか?と。ワインを飲みながら、ピカソの絵の意味ついて論じるくらいしか、やることがないだろうに。
リオタールが言います、1982年の文章です、
「われわれはレゲエを聞き、ウェスタンを観、お昼にはマクドナルド、夜には地元の料理を食べ、東京ではパリの香水をつけ、香港ではレトロなファッションに身を包み、知識はテレビのクイズ番組の材料でしかない。折衷的な作品にとって、公衆を見つけるのは簡単だ。キッチュになることで、芸術は、愛好家の趣味を支配している混乱におもねる。アーティスト、ギャラリー経営者、批評家、公衆は、そろってどんなものでも手当たり次第におもしろがる。そして弛緩が時代を支配する。けれどもこの手当たり次第のリアリズムとは、お金のリアリズムだ。美学的判断基準が存在しないときでも、作品の価値をそれがもたらす利益によって計ることは、可能だし、役に立つことであり続ける。このリアリズムは、ちょうど資本があらゆる欲求にしたがうように、あらゆる傾向にしたがうものなのだ、それらの傾向や欲求が、購買力を持つ限り。」『ポストモダン通信』朝日出版社P.21
これが、私が見るリオタールの典型的な文章です。
そして彼の目に映る「ポストモダン」時代の描写です。
要するに、思考する価値のあるものを見失っています。この時代に、そんなものはない、と。
それでいて哲学者と名乗らねばならない、その悩み。
この悩みこそ、まさにフランス的「ポストモダン」の悩みです。
フランスでは、哲学は、革命前に終わりました。
デカルト、パスカル、ルソーまでに出つくしました。
サルトルの哲学が、何か新しい思想を提供したか?
人生は退屈である、という以外に?
だからサルトルにとっては、「ナチ・ドイツの支配下にある時代のパリが、一番自由だった」、という言い方になります。ともかく、そこには何か抵抗できる実体があったわけです。
解放後は、バカンスしかない、と。
だから、いっそのこと、「バカンスの哲学」と名づければよかったわけです、戦後のフランス構造主義哲学は。
|
|