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「I just had to let it go」 by ジョン・レノン

 投稿者:ウエダ  投稿日:2009年11月11日(水)08時08分51秒
  おはようございます、皆さん、植田です。

 次の話題で書きました。Sサイトです。

ジョン・レノンの「WATCHING THE WHEELS」の意味
 

中国脅威論は真実ではない、という説

 投稿者:ウエダ  投稿日:2009年11月10日(火)08時53分36秒
編集済
  おはようございます、皆さん、植田です。

 いや、昨年と同様、この掲示板の更新の時期が来たようです。
 メールが届いていたようですが、関係なしメールと分類して、消去してしまっていたようです。
 手続きの方法が分かり次第、更新する予定です。

 さて、日本人の中国研究の話題を書いたところで、本日の日経新聞を見たら、一面に中国人のインタビューがありました。
 中国人民大米国研究センター長の時殷弘氏です。

 この人の発言を拝見すると、日本人は一人で縮こまっていただけではないか、という思いが強くします。
 それも、戦後の日本人が自分の足で立っていないことから、外の世界を誇大視・過大視してきたからでしょう。日米安保という大樹の傘にいたがゆえの自己過小評価です。

 時氏が言います、

 「中国は東アジアで主導役を担うつもりはない。将来のアジアは〈各国首脳による〉集団的な指導体制になると思う。中国は技術面では日米に50年たっても100年たっても追いつかず、軍事面では米国には50年たっても100年たっても追いつかない。中国脅威論は的外れだ。」日経新聞2009.11.10

 時氏のこの発言は本当のことなのか、ブラフか。
 日本人を安心させておいて、その間に、日本を追い抜いてしまう、と。
 さて、真相はどこにあるでしょうか。

 ジョセフ・ナイ氏によればこうです。
 日経記者の問いに答えて言います、

 「記者ー中国の国内総生産(GDP)が間もなく日本を追い抜く。米国にとって、日本の価値が下がっていないか。
 ナイー総額で追い抜いても、一人当たりのGDPや経済の高度化という面で中国は日本に及ばない。日本は民主国家という意味でも米国の仲間だ」一昨日の日経新聞

 技術開発でも、一人当たりのGDPでも中国は当分日本に追いつかない、というアメリカ人と中国人の二つの説です。
 日本人はいかなる不安に怯えているのでしょうか。

 私が思うには、戦前の日本軍の不安です。
 もし日本軍が再現したら、日本人は自分で軍を管理できなくなる、という不安です。
 だから戦後の日本人は安全保障のアメリカ依存を選択しましたが、今度は、それゆえに米国に属国状態となり、軍事的には自国を0の視点から外を見るようになりました。
 これが、外の世界の視野をゆがめさせるのでしょう。

 問題の根源は、国内にあり、です。
 

キャノンがビジネス中国語ができない社員は中国に行かせないと決めた

 投稿者:ウエダ  投稿日:2009年11月10日(火)07時32分37秒
  おはようございます、皆さん、植田です。

 昨日だったか、その前だったか、新聞に興味深い記事がありました。
 キャノンが「ビジネス中国語ができない社員は中国に行かせないと決めた」と発表したというものです。
 これからの市場は中国になるので、中国語ができる社員がキャノン製品の売上増大の中核になるとの読みです。
 実に興味深いです。

 日本人にとって中国とは何だったのでしょうか。
 学問的に見れば、江戸時代の中国学者たち。その時代は「儒学者」と総称・自称していたでしょうが、たとえば荻生徂徠でしたか、儒学の研究は原語・原典を土台にせよ、と主張しました。ということは、その時代の中国文献の研究は、すでに日本語に訳されていたので、あえて「中国語・日本語」問題を意識することなく、研究が行えていたわけです。

 その時代、山本七平氏が紹介していますが、「もし中国が攻めてきたら、どうする?」という疑問が儒学者を悩ませた、と。
 学問の源と尊敬している中国から、軍事的にその中国人が列島に攻め込んできたら?

 で、キャノンの当然すぎるほど当然な社内方針を見て思うことは、日本人の中国学は、長い間、日本人が勝手に「これが中国だ」と思いこんで、いや、日本と中国の区別を捨象するまでに中国を日本化して解釈してきたのではないか、ということです。

 たとえば、戦前に中国大陸に進出した日本軍は、敵の研究をするために江戸時代の儒学者たちの中国研究を利用したのか。
 たとえば、現在の中国が一党独裁の社会システムであることは誰もが知っているが、その理由は解明されているのか。つまり、なぜ中国という国は、21世紀になった今でも、デモクラシーの政体ではないのか。

 かっては中国を日本化して研究していた日本人の「中国学」が、キャノンの場合のように、いよいよ中国を明確な「外国」と規定して接する時代が来ました。
 これからが「中国学」の本番となる、と言えます。
 外国としての中国、です。
 同様に、外国としてのアメリカ、です。

 従来の日本人の得意技は、これらの「外国性」を無化することでした。
 これからは、外国人は外国人、とはっきりと認定して、外国研究がスタートです。

 面白いですよ。
 

日本語に未来形はあるか

 投稿者:ウエダ  投稿日:2009年11月 9日(月)16時13分43秒
編集済
  こんにちは、皆さん、植田です。

 日本語の話題です。
 私に以前から気になる日本語の言い回しが一つあります。
 「〜かねない」という言い方です。
 これは何か。

 未来形か。
 未来形だとしたら、未来推量なのか。

 明治時代の日本にキリスト教を布教にきたドイツのプロテスタント宣教師がいました。
 カール・ムレチンガーです。
 彼が日本人を観察して、1898年に本を出しました。
 日本語についての考察があり、日本語と未来形の問題を論じています。

 「非常に面白いのは、日本語には未来形がないことだ。2、3の文法学者が未来形1だの未来形2だのと言っているのは、不確定な分離した現在形や過去形を間違って解釈しているのだ。そういう解釈が出る理由は、未来というのが未だ現実になっていないもの、つまり不確定のものを表現するものだから、ドイツ語の未来は日本語では不確定を表す形で表現されるためである。」『ドイツ宣教師の見た明治社会』p.53

 なるほど。
 そういうわけで、不確定の言い方になるわけですか。「なりかねない」と。
 私には、妙に説得力のある説明です。

 ということは、明治以来、日本人は近代西洋語の文法を学習し、そこに未来形があることは十分知ったとしても、日本語ではまだ実践していないということになりますが、しかし、これには反論したい人も多いでしょう。

 ムレチンガーの説明をもう少し紹介しておきます。

 「なぜ日本語に現在と過去があるのに未来がないのかという質問は、容易に答えられる。現在と過去は経験から言って、現実を含むからだ。現在という時称は直接現実の世界の中に生きているので、日本語では特に好んで使われ、誤解が生じないところではドイツ語の現在完了も現在形で表わされる。・・
 しかし未来というのは、非現実と関係がある。未来というのは足が立つための確かな支えがないような、未知のアイマイナところであって、手が実際に触って把握できる現実の代わりに漂う霧を掴まなければならないし、目も明らかにはっきりとみえないようなところである。そのようなところでは日本人の具体的現実的五感が気楽に感じないとしても、驚くことはない。このことは日本人の持っている他の傾向と一致している。
 日本人は現実に経験して知っていることは、否定することもできて、ちゃんと否定形を使う。しかし未来のことのようにそういうものが最初から存在しないところでは、表現を失ってしまうのである。そこでここは日本人の理解に従って、つまり未来を何か不確定なものとか曖昧なもの、あやふやなものと思うプリミティブな精神に従って、我々が未来形を使うであろう場合に、しばしば不確定な選言的な形が出てくるのである。」同前掲書p.54

 いや、この本の日本語の翻訳者は生熊文氏ですが、うまい訳語を使ったものです。
 「選言的」ですか。
 まさに「〜かねない」にぴつたりではないですか。

 応用してみましょう。
 このまま鳩山首相が決断を先延ばしにし続けると、日本丸は早晩、座礁しかねない。
 

三人称単数、問題

 投稿者:ウエダ  投稿日:2009年11月 9日(月)12時55分20秒
編集済
  こんにちは、皆さん、植田です。

 国語の教科書の次は、英語の教科書です。
 あ、そうだ、息子の発熱ですが、医者に行ったところ、インフルの反応が出ませんでした。それで普通の風邪ぐすりをもらって来たのですが、医者が言うには、まだしばらく様子を見ないとなんともいえない、とのことでした。
 やれやれ、です。
 息子の学年では、息子のクラスだけとなりました。あとは全部学級閉鎖中です。
 明日あたり、学年閉鎖になりそうです。
 インフルの脅威がまざまざです。

 で、英語の教科書に出ている文法。
 he、sheについてこうあります。

 「すでに話題にのぼっている人について言うとき、男性にはheを、女性にはsheを使う。

 This is Mike. He is my friend.
 This is Ms.Green.She is our teacher.」

 これだけです。
 これだけですが、日本語の歴史の中に置くと、この三人称は大きな問題です。
 日本語の世界では、三人称は明治時代までありませんでした。
 この問題だけに一冊の本を書いた人に野口武彦氏がいます。『三人称まで』。

 で、今は、夏目漱石の格闘です。
 漱石は、日本語の中に三人称を導入するために大変な努力をしました。
 面白い表があります。
 漱石が、その小説群の中で、人称代名詞をいかに使っていったかを示す表です。
 今、he、sheだけを見ると、こんな具合です。

           he     she
 倫敦塔        10
 吾輩は猫である    112
  坊ちゃん        1
 草枕        15     1
 虞美人草       8
  三四郎        8
 それから      309
 門         240     7
 日岸過迄      608   163
 行人         455   266
 心         275     3
 明暗        1341   896

以上のような具合です。
 この表を紹介しているのは小池清治氏。

 「表は、漱石の作品の作品における三人称代名詞の発達過程を確認するためのものです。
 女性の三人称代名詞〈彼女〉が定着するのは『日岸過迄』(明治45.1〜4)以後のようです。・・
 男性の三人称代名詞〈彼〉が定着するのは『それから』(明治42.6〜10)以後のようです。・・
 『明暗』における〈彼〉〈彼女〉の定着ということは、〈新しい書き言葉〉の成立を象徴することなのかも知れません。漱石が目指したものは、〈言文一致〉の文章ではありませんでした。〈言〉と(文〉との双方から歩み寄った新しい文体であったのです。『明暗』は作品としては未完でありましたが、文体の点では完成していたと言ってよいと思います。」『漱石を読む』岩波セミナーブックスp.77

 副島氏が指摘したように、現代人たる戦後世代の私たちは日英統一文法を企てる時代に入っていますが、三人称代名詞を見るだけで、このようなプロジェクトを計画できるようになるには、先人たちの苦労がありました。
 わずか100年前には、日本語には「三人称」という概念が登録されていなかったわけです。
 しかし、いったん、その概念が紹介されれば、あっという間に日本語に普及しました。ここでの「あっという間」とは一世紀のことです。

 なぜそうなるのか、と言えば、三人称の概念は、もともと人間の精神のなかにあるからだ、と言えるでしょう。
 それが何かしらの触発によって、現実化される、と。
 何かプラトンの「想起説」のようです。

 この視点から見れば、律令理性とは、人間精神の自然な発展を、その完成まで導かずに、永遠に途上にとどめ置くもの、と定義できます。
 しかし、律令理性も、人間精神の発展の一つの段階であることには違いありません。
 

西洋語でも近代とそれ以前では、人間の主体を置く場所が異なる

 投稿者:ウエダ  投稿日:2009年11月 9日(月)11時43分54秒
  こんにちは、皆さん、植田です。

 次の話題で書きました。Nサイトです

近代西洋語は「思考」言語、日本語は「感覚」言語
 

神は、人間を直接に創造し、動物を関接的に創造した

 投稿者:ウエダ  投稿日:2009年11月 9日(月)08時10分49秒
  おはようございます、皆さん、植田です。

 次の話題で書きました。Sサイトです。

旧約聖書では、神(クリエーター)は創造するとき、人間と動物に差別をつけた
 

日本語文法と日米同盟の共通点

 投稿者:ウエダ  投稿日:2009年11月 9日(月)07時23分15秒
編集済
  おはようございます、皆さん、植田です。

 文法と、日米同盟の強い関係について、の話題です。

 中学の教科書では、主語と述語の関係を主従関係と見なしていました。
 私には、なぜそうなるのかわからないのですが、しかし、そういうことだとしておきましょう。(学校でテストを受ける場合は、「わからない」と口にするのはやめて、わかったふりをして、そこは「主従関係である」と答案用紙に書いてください。世渡りの知恵です。学校教育は、世間で通用している常識を伝達するだけで、真実を求めるものではありません。デカルトが言うように、真実が見つからないうちは、世間の常識の側につけ、です。余談でした〉。

 理由は別として、日本語の文法では、主語と述語の関係は、主従関係である、と説明しています。
 ここをしっかりと頭に入れてください。

 そこで次。
 ジョセフ・ナイに日経新聞の記者がインタビューをしています。昨日の記事です。

 「記者ー鳩山由紀夫首相は国会答弁で『自民党は対米追従だった』『日米関係は再検証が必要だ』などと述べている。
 ナイー主従関係になぞらえるのは誤りだ。日米は法的に対等で、日本が米軍駐留による安保を望まないのならば撤収を求めることができる。そうなれば米軍は撤収する。」日経新聞2009.11.8

 ジョセフ・ナイ氏はハーバード大の教授で、クリントン政権で国防次官補を務めた人です。日本のメディアに最も頻繁に登場するアメリカ人の一人です。
 で、彼が言うには、日米関係は主従関係ではない、と。
 なぜなら、日本人がアメリカ軍の撤収を望めば、アメリカ軍はすぐに撤収するから、と。

 どうですか。
 私には、日米関係を主従関係にしているのは、いや、そのように発想しているのは、日本語の文法ではないか、と思えるのですが、どうでしょうか。
 いや、ここは、そうである、と断言してしまいましょう。
 すなわち、それが律令理性である、と。

 律令理性は、モノゴトを主従関係でしか把握できない思考様式なのである。

 文法もそう、日米関係もそう。
 この世の出来事をすべて主従関係にしてしまうのは、日本人の思考様式のせいなのである。

 というわけで、このことがわかれば、世界は一変します。
 アメリカのせいにしていたことの多くは、日本人が自分で作っていたこと、となります。
 しかし全部が全部、日本人が作り出したもの、とは言えません。アメリカにはグローバル戦略があるためです。ナイ氏がそうは言っても、アメリカ海軍にとっては、日本列島の地政学的位置は必須でしょう。
 ここのアメリカ国内の意見の相違や、そこから出てくる現実の政策を研究するのが、「アメリカ研究」です。

 そのアメリカ研究と、日本側要因の問題を、私たちはしっかりと区別する必要があります。
 その上で言いたいのは、文法の主従関係の発想にせよ、日米同盟の主従関係の発想にせよ、私には、日本人がみずから招いている事態としか思えない、ということです。

 日米同盟について言えば、日本人がアメリカとの主従関係をやめたいのであれば、米軍に撤収してもらえばそれで済みます。これをしないで、日米関係は対等ではない、なんてことを言いふらすのは、時間の無駄です。自分で招いた事態を、人のせいにするな、です。
 文法については、いつでも、説明構造を変えることができます。
 主語と述語は主従関係にはない、と。ただ主語と動詞の関係である、とすればいいだけです。

 もっとも、日本人がなぜ主語と動詞の関係を主従関係と解釈したのか、これはこれで興味深い問題です。
 どうすれば、というか、いかなる理性がそのように解釈するのか、と。
 まあ、これはすでに答えが出ているように、律令理性です。

 で、この律令理性による文法解釈の犠牲になるのが、日本の若者たちです。
 もともと従属関係ではないものを、従属関係にあると、若い頭に染み込まされていくわけですから。
 

同じ用語を使えば、統一文法は簡単にできるのではないか

 投稿者:ウエダ  投稿日:2009年11月 9日(月)06時52分10秒
  おはようございます、皆さん、植田です。

 インフルが猛威を振るっています。
 皆さんの地方はどうですか。

 息子の学校で学級閉鎖が相次いでいます。
 ついに今朝、息子が発熱しました。
 昨日、薄着だったのでそれが原因なら普通の風邪ですみますが、インフルだった大変です。
 ただ、インフルの場合は、学校を休んでも欠席扱いにはならないとのことです。

 皆さん、今年の冬は、健康に大いに気をつけて過ごしてください。

 さて、話題は、文法です。
 息子が小6だった昨年から教科書を時々見せてもらうようにしているのですが、中学の教科書になったら、国語の文法がけっこう出てきました。
 昨晩も、それをつらつらと見ていたのですが、はたと思ったことは、なぜ、英語もドイツ語も日本語も、同じ用語で語らないのか、と。
 統一文法なんて固いことを言わなくても、すでに使われている用語で、これらの言語の文法を説明してしまえばいいではないか、と。

 たとえば、中学1年の国語の文法を見ると、修飾語とか接続語とか独立語とかが出ています。
 「接続語」だったら、英語にもドイツ語にもあります。

 それから「主語」「述語」などという用語が出てきます。
 このうち「主語」だったら、英語にもドイツ語にも日本語にもあります。

 対象となる言語は英語、ドイツ語、日本語と異なれど、文の構成を支配するルール、法則、すなわち「文法」は同じである、と私たちが設定して、この設定を具体的に推し進めるために、たとえば、すでに日本語として使われている英語の文法用語をこれらの用語に一律に当てはめてみる、と。

 例文です。

 花が咲く。

 これを中学の教科書では、花=主語、咲く=述語、とします。「そして両者の関係を主従の関係という」と説明しています。
 英語であれば、そのようには説明しないでしょう。
 花=主語。
 咲く=動詞。

 主語と動詞の関係は主従関係にある、とは英語的には説明しないでしょう。
 つまり、英語と日本語の統一文法をつくるなら、簡単なこと、今まで「述語」と呼んでいたところを「動詞」とすればいいだけではないか、となります。

 意味的には同じ、花は咲く、という文を説明するに、なぜその文法を各国で異ならせる必要があるのか。

 花は咲く→主語+動詞=S+V
 Flowers bloom.→主語+動詞=S+V

 全く同じ文型です。

 同様に、日本語で言う「体言」とは、英語で言う「名詞」のことです。
 ちなみに、中学の教科書の説明ではこうです、「体言とは、事物や人などを表す言葉」。これなら、名詞のことです。だったら、なぜ「名詞」と呼ばないのか。そう呼べば、これだけで日本語と英語の文法が同じ土俵にあがります。

 同様に、用言もそうです。用言とは要するに、動詞のことです。
 教科書の説明=「用言とは、動作・作用・存在・性質・状態などを表す言葉」。
 そうであるなら、動詞です。

 統一文法の構築は、生むがやすし、です。
 同じ用語を使うだけ、と。
 

仮定法と思考方法

 投稿者:ウエダ  投稿日:2009年11月 8日(日)11時58分19秒
編集済
   こんにちは、皆さん、植田です。

 私たちは、なぜ英語を学習しているのか。
 自然理性文明に敗北した結果ではないのか。
 と考えることができます。

 副島隆彦氏の『英文法の謎を解く』の仮定法を述べた章に、次のような文章が出てきます。

 「日本人が〈仮定法〉として習ったものを、英米では現在、総じて〈条件法〉(コンディショナル〉として勉強することになっているのである。私が、このような事実を指摘したからといって、日本の英語学習者たちにとって、直接的に何かの役に立つことはないだろう。
 しかし、私たちは、今こそ、欧米人と、なんとか対等に英語で議論できるようにならなければならないのだから、彼らが敷いて世界に広めている土俵(リング)を理解せねば、済まないのである。日本には、日本国内でしか通用しない基準や知識が多くあって、実にいけないことである。
 たかが、〈もしAがBならばCはDである〉’If A is B,then C is D’という形をした文のことではないか、と考えてはならない。なぜなら、現代文明を席巻したコンピュータのソフトはすべて、どんなものもこの一行の文を何千、何万、何十万と並べて作られているのだ。」P.141

 ということは、私たちは、英語を学習するまで、欧米人と対等に話すことはできないのか。
 これは、鳩山首相のセリフを思い起こさせます。
 「対等の日米関係を築くために」。
 では、日米同盟にあって、これまで日本はアメリカと対等ではなかったのか。

 以上のような発想の背景には何があるのか。

 ペリーの来航以来、日本文明は二度とそれ以前に戻れない状況の中に投げ出されてしまった、ということです。
 ペリー・ショックを受けたことの最初の国内的反応は明治維新でした。そこで明治政府は皇国日本を構築しました。
 外的反応として、皇国・日本を中国大陸へ膨張・進出させました。

 そしてアメリカに完全敗戦します。
 以後、英語の学習は不可欠になりました。
 これはアメリカ軍の武力に押されての結果なのか。
 それとも、英語にそれだけの力があるのか。
 あるとしたら、それは何か。

 例えば仮定法です。
 副島氏が言います、

 「日本人に仮定法がなかなか分からないのは、大きく3つある。
 その1つめは、日本人はa〈現実・事実についての世界〉(直接法)と、b〈個人の意見、感情の表明の世界〉(仮定法)の区別が、欧米人に比べて薄弱だという理由がある。・・」前掲書p.124

 つまり、文法の中に、英語語圏の人たちがその歴史を通して開発してきた思考方法が刻印されている、ということです。
 たとえば、それが、日本語の文法では、事実の言明文と、人の意見文の区別が明確ではない、と。
 ゆえに、近代社会に入ったペリー以後の日本人は、近代語である英語を、とにかく、まず学習せねばならないのだ、ということになったわけです。

 自然科学は西洋の文明圏から立ち上がりました。
 それは彼らの文法に秘密があるのか。
 私はこの疑問を覚えて、自然科学系の本もよく読みました。
 ひとつ、これだ! と思ったのは、フランス革命の時代にギロチンで死んだフランスの科学者ラボアジェでした。
 言語は数学と同じく、分析の道具である、というものでした。

 「私たちは言葉の助けによってのみ考える。言語は真の分析手段であり、あらゆる叙述形式の中で最も単純かつ厳密で、最も目的に適っている代数学もまた一つの言語であり、同時に一つの分析手段である。要するに推論の術も、よくできた一つの言語に還元される。」

 で、今紹介した文章を私は長くラボアジェのものと思っていたのですが、今、再読したところ、ラボアジェが別の人の文章を引用したものでした。当時のフランス人思想家のコンディヤックの文章でした。
 ラボアジェ自身の文章は、次のように続きます。

 「科学用語を科学から切り離すことも、科学をその用語から切り離すこともできない。それは、自然科学全体が必然的に3つのことがら、すなわち科学を構成する一連の事実と、それらを想起するための諸観念、およびそれらを表現する言葉から成り立っていることに関係している。言葉は観念を生じさせ、観念は事実を描きだす。それらは一つの同じ印章の3つの刻印である。観念を保持しかつ伝えるものは言葉であるから、科学を完全なものにしなければ言語表現を完全にすることはできず、言語の完成なくしては科学の完成もないことになる。たとえ事実が確実で、事実から生じた観念が正確であつても、観念について厳密な表現をもたなければ、間違った印象しか与えられないであろう。」『科学の名著ラボアジェ』朝日出版社P.3

 英語に限らず、欧米の言語は、こうした自然科学史の上にも成り立っているわけです。
 自然科学が登場する前は、聖書が君臨していました。そして、古代ギリシアの哲学です。
 古代ギリシア哲学、聖書、自然科学、大雑把に言ってこれら3つの要素から構築された西洋語に、私たちはペリー・ショックによって、否応なく、直面しました。
 以後、私たちはそれ以前の世界に二度と戻れなくなりました。

 どうしたらいいか。
 答えは、西洋語の本質は、自然理性にある、です。
 そしてそれは、日本人であれ、何人であれ、誰の精神にもある、と。
 

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