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こんにちは、皆さん、植田です。
私たちは、なぜ英語を学習しているのか。
自然理性文明に敗北した結果ではないのか。
と考えることができます。
副島隆彦氏の『英文法の謎を解く』の仮定法を述べた章に、次のような文章が出てきます。
「日本人が〈仮定法〉として習ったものを、英米では現在、総じて〈条件法〉(コンディショナル〉として勉強することになっているのである。私が、このような事実を指摘したからといって、日本の英語学習者たちにとって、直接的に何かの役に立つことはないだろう。
しかし、私たちは、今こそ、欧米人と、なんとか対等に英語で議論できるようにならなければならないのだから、彼らが敷いて世界に広めている土俵(リング)を理解せねば、済まないのである。日本には、日本国内でしか通用しない基準や知識が多くあって、実にいけないことである。
たかが、〈もしAがBならばCはDである〉’If A is B,then C is D’という形をした文のことではないか、と考えてはならない。なぜなら、現代文明を席巻したコンピュータのソフトはすべて、どんなものもこの一行の文を何千、何万、何十万と並べて作られているのだ。」P.141
ということは、私たちは、英語を学習するまで、欧米人と対等に話すことはできないのか。
これは、鳩山首相のセリフを思い起こさせます。
「対等の日米関係を築くために」。
では、日米同盟にあって、これまで日本はアメリカと対等ではなかったのか。
以上のような発想の背景には何があるのか。
ペリーの来航以来、日本文明は二度とそれ以前に戻れない状況の中に投げ出されてしまった、ということです。
ペリー・ショックを受けたことの最初の国内的反応は明治維新でした。そこで明治政府は皇国日本を構築しました。
外的反応として、皇国・日本を中国大陸へ膨張・進出させました。
そしてアメリカに完全敗戦します。
以後、英語の学習は不可欠になりました。
これはアメリカ軍の武力に押されての結果なのか。
それとも、英語にそれだけの力があるのか。
あるとしたら、それは何か。
例えば仮定法です。
副島氏が言います、
「日本人に仮定法がなかなか分からないのは、大きく3つある。
その1つめは、日本人はa〈現実・事実についての世界〉(直接法)と、b〈個人の意見、感情の表明の世界〉(仮定法)の区別が、欧米人に比べて薄弱だという理由がある。・・」前掲書p.124
つまり、文法の中に、英語語圏の人たちがその歴史を通して開発してきた思考方法が刻印されている、ということです。
たとえば、それが、日本語の文法では、事実の言明文と、人の意見文の区別が明確ではない、と。
ゆえに、近代社会に入ったペリー以後の日本人は、近代語である英語を、とにかく、まず学習せねばならないのだ、ということになったわけです。
自然科学は西洋の文明圏から立ち上がりました。
それは彼らの文法に秘密があるのか。
私はこの疑問を覚えて、自然科学系の本もよく読みました。
ひとつ、これだ! と思ったのは、フランス革命の時代にギロチンで死んだフランスの科学者ラボアジェでした。
言語は数学と同じく、分析の道具である、というものでした。
「私たちは言葉の助けによってのみ考える。言語は真の分析手段であり、あらゆる叙述形式の中で最も単純かつ厳密で、最も目的に適っている代数学もまた一つの言語であり、同時に一つの分析手段である。要するに推論の術も、よくできた一つの言語に還元される。」
で、今紹介した文章を私は長くラボアジェのものと思っていたのですが、今、再読したところ、ラボアジェが別の人の文章を引用したものでした。当時のフランス人思想家のコンディヤックの文章でした。
ラボアジェ自身の文章は、次のように続きます。
「科学用語を科学から切り離すことも、科学をその用語から切り離すこともできない。それは、自然科学全体が必然的に3つのことがら、すなわち科学を構成する一連の事実と、それらを想起するための諸観念、およびそれらを表現する言葉から成り立っていることに関係している。言葉は観念を生じさせ、観念は事実を描きだす。それらは一つの同じ印章の3つの刻印である。観念を保持しかつ伝えるものは言葉であるから、科学を完全なものにしなければ言語表現を完全にすることはできず、言語の完成なくしては科学の完成もないことになる。たとえ事実が確実で、事実から生じた観念が正確であつても、観念について厳密な表現をもたなければ、間違った印象しか与えられないであろう。」『科学の名著ラボアジェ』朝日出版社P.3
英語に限らず、欧米の言語は、こうした自然科学史の上にも成り立っているわけです。
自然科学が登場する前は、聖書が君臨していました。そして、古代ギリシアの哲学です。
古代ギリシア哲学、聖書、自然科学、大雑把に言ってこれら3つの要素から構築された西洋語に、私たちはペリー・ショックによって、否応なく、直面しました。
以後、私たちはそれ以前の世界に二度と戻れなくなりました。
どうしたらいいか。
答えは、西洋語の本質は、自然理性にある、です。
そしてそれは、日本人であれ、何人であれ、誰の精神にもある、と。
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